3月11日に東北地方の太平洋側を中心とした東日本を襲った「東日本大震災」。この未曾有の災害は、地震および津波により甚大な被害をもたらした。ここ九州・福岡においても直接的な被害こそ少ないものの、間接的な影響は多く受けている。そんななか、RO(逆浸透)膜を使った水処理のトップ企業・ゼオライト㈱は、偶然にも社員の1人が現地にて今回の大震災を体験したという。無事、生還を果たした同社プラント事業部技術部長の松井真二氏の体験談をもとに、今回の地震・津波の脅威を振り返る。
<フジパン仙台工場を襲った震度6弱の強い揺れ>
ゼオライト(株)は、1969年に創業、翌70年の設立されたRO(逆浸透)膜を使った水処理業界のトップランク企業である。このRO膜を使った水処理は、ほぼ完全に不純物を取り除けることから、上水のみならず下水にも利用が可能。同社はこれらのプラントの設計から施工までを顧客の要望に応じて一手に引き受けることで、業界トップランクの地位を築くに至っている。同社の技術力は高く評価されており、福岡はもとより全国各地から引き合いが来ている。
今回、同社が手がけていたのは、製パン大手のフジパン(株)の仙台工場(宮城県岩沼市)に設置するプラント。震災が発生した11日、仙台空港近くに位置する同工場では、竣工予定である3月29日を目前に控え、最終的な調整および慣らし運転が行なわれていた。今回設置したのは、同社でも初となるオゾンを使用した最高の排水プラント。同社プラント事業部技術部長の松井真二氏が、現場担当として作業にあたっていた。
そして14時46分、太平洋三陸沖を震源とした地震が発生した。ちょうどそのとき、松井氏は受水槽のうえにのぼっていたという。そこに強い揺れが襲った。ただし、そのときの地震の揺れそのものは、そこまで強く感じなかったという。
「私は福岡の西方沖地震も経験しましたが、体感ですと、揺れとしては福岡の方が強く感じました。あのときは縦揺れで直下型の地震でしたので、ものすごく揺れた記憶があります。しかし、今回の地震は横揺れで長時間揺れるというものでしたので、そこまで強くは感じませんでした。また、実はちょうど直前の9日にも震度5の地震が起こっていたので、揺れに対して多少の慣れもあったのかもしれません」(松井氏)。
実際、揺れが収まった後に工場内を見回ってみても、同社の機械類に被害はなかったという。工場内も大きな被害がなく、薬品タンクからこぼれた薬品を掃除しながら、点検して回った。
<すべてを飲み込む黒い壁 迫り来る津波の恐怖>
「津波が来るよ!」―そう叫んだのは、同工場の建築を手がけた㈱ナカノフドー建設の人だった。当日、同工場では最終引き渡しの検査関係で工事関係者が約50人、フジパン従業員が約150人の、計200人近い人数がいたという。地震発生後、関係者はみんな建物の外に避難し、点呼を取るなどしていた。工場の場所は海岸から約1km。その時点では、津波に対しての危機感はまったく感じられなかったという。
「私は地震発生後、機械室で掃除などをしていました。もう1人の方がTVでニュースをチェックしていたのですが、『名取川が氾濫した』という情報が画面に映りました。そこは工場のすぐ近くでしたので『ヤバイな』と思い、確認しようと外に出て後ろを見ると、すでにそこには津波が来ていたのです」(松井氏)。
見ると、どす黒い土の塊のような津波が押し寄せてきている。「ヤバイ!」と、松井氏ともう1人は全速力で走った。工場の階段までの距離、約150m。後ろを振り返る余裕はなかった。2人が階段をのぼり終えた後、津波が後ろをかすめていった。間一髪だった。
工場の2階にのぼると、みんなパニック状態。女性社員も多くいたが、腰を抜かしたり、悲鳴を上げたりしていた。窓から下を見ると、そこには轟々と押し寄せる濁流が。車、資材、あらゆるものが飲み込まれていった。ただ、2階にいても水位が上がってくるのが見えた。「ここにいては危ない」―松井氏を含め、そこにいた全員が工場の屋根にまで退避した。東北の春は遅い。屋根にのぼると、3月とはいえ雪が散らついていた。
「第2波が来るかも」という話があがった。松井氏が海の方を見ると、次の津波が迫ってきていた。「これはヤバイかもしれない」と、松井氏を含めみんなが工場の煙突などつかめるところに分散してつかまった。「いざとなったら、水に飛び込むしかない」―松井氏は覚悟を決めた。
<生死を分かつ「運」「不運」>
結局、第2波は来ることはなかった。恐らく、引き波とぶつかって相殺されたと思われる。
夕方、あたりが薄暗くなってきてから、屋根にのぼっていたみんなは2階へと降りた。無事だったパンのなかからきれいなものを選び、おそらく近隣の工場から流れてきたであろうジュースを拾って、みんなで飢えをしのいだ。そして真っ暗ななか、2階の倉庫のような場所の奥でダンボールを敷いて一夜を明かした。水は、次の朝までずっと引かなかった。
翌日、みんなで避難所へと移動を開始。幸いにして、フジパンの社員を含め、工場の関係者約200人はみんな助かっていた。あたりが泥だらけのため足にビニール袋を巻き、土手づたいに歩いていった。避難所までは約5時間。被災から2日目の夜は、避難所で過ごした。
3日目、ようやく帰るメドが付いた。同じように助かって避難していた方に、福島空港まで車で送ってもらい、そこから札幌、羽田と経由して、無事に福岡へとたどり着いた。
今回の津波からの生還劇を、松井氏は次のように振り返る。「今回の津波との遭遇は、気づくのが遅れたり、もしくは気づかないでいたら、間違いなく飲み込まれていたことでしょう。後日、現場調査で再び現地を訪れたのですが、まるで焼け野原のようで、日本ではないみたいです。今回助かったのは、とにかく『運が良かった』としか言いようがありません」。
筆者も、実際に現地の工場2階より撮影された動画を見せていただいた。そこには、渦を巻く濁流がすべてを飲み込んでいく様が、まざまざとリアルに映されていた。このような大自然の脅威に対しては、我々人間はとても抗う術を持たない。松井氏が生還できたのは、まさに本人および同社・ゼオライトが持つ「運力」が招き寄せた「奇跡」だったのであろう。
【坂田 憲治】
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