元カリスマ中洲ママのSさんが2年ぶりに中国から福岡に帰ってきた。
彼女は5年前の61歳の時、それまで30年続けてきた中洲のクラブを後進に譲り、第2の人生を歩みだした。リタイア後しばらくの間、第2の人生を謳歌していた彼女だが、いままでの人生の延長線上にある生活になんとなく物足りなさを感じていたという。
中洲で30年間、店を切り盛りしてきた器量と持ち前の行動力、そして前向きな発想力は、「よし、この身体が元気なうちに、外から日本を見てみよう」という決意へとつながった。
そして、你好(ニーハオ)と謝謝(シェイシェイ)しか知らない63歳の留学生は2008年、電子辞書を片手に単身中国・青島市に渡った。
中国の地に降り立った彼女は、ひとりで異国へきた不安感より「よし、今から2年間がんばるぞ」という女子学生のようなワクワク感のほうが大きかったという。青島に到着してまず、知人の紹介で知り合った中国人通訳とともに現地の不動産業者を訪ね、賃貸マンションを見て回った。中国の場合、賃貸マンションは年契約だから1年分の家賃(日本円で約60万円)を前払いして1LDKの家具家電付のマンションを契約した。日本円で60万円といえば、現地の平均年収ぐらいだからかなりの高級マンションだ。市内の中心部でもあるし日本式スーパーのジャスコも近かった。
もちろん第一目的である外国語学校へも徒歩圏内のところを選んだ。彼女が通った外国語学校は、主に中国人学生が日本語を学ぶところで、外国人が中国語を学ぶ人数はわずかだったらしい。そのため、ほとんどマンツーマンで授業が受けられ、毎日勉強に集中できたようだ。また、この外国語学校が合理的ですばらしいと感じたのは、日本語を教えるのは日本人教師で、中国語を教えるのは中国人教師だった点であるという。
こうして、外国語学校生徒のなかでも最年長で、しかも教師のみならず校長先生よりも年上の日本人女子学生の中国における留学生活がはじまった。
【杉本 尚大】
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