4月に行なわれた福岡県議会議員選挙(柳川市選挙区)で、自民党現職で7選をめざすベテラン江口吉男氏を破り、初挑戦で初当選を果たした椛島徳博氏(54)。同氏は、自らの長い代議士秘書生活を振り返りながら、今後の県政にかける意気込みを語った。「農業、漁業の再生」と「県南のインフラ整備」をライフワークに取り組んでいくと強調した。
<しがらみのない人たちが支えてくれた>
―当選おめでとうございます。ズバリ勝因をお尋ねしたのですが、まず、どういう層が椛島さんを応援されたのですか。
椛島 しがらみのない人たちです。つまり、利害関係ではなく、真心で応援してくれた人たちです。いちばん頑張ってくれたのは中学、高校の同窓生、そして地元の皆さんでした。そうした人たちが支援の輪を拡げていただいたことは間違いありません。地元の投票率は70%を超えていましたから。
―ところで長い秘書生活でしたよね。
椛島 合計13年間です。そのうち古賀一成代議士のもとで12年間勤めました。秘書になったきっかけは消防署に勤務していたころ、一成氏の父である古賀杉夫柳川市長に戦前戦中の激動期の話を聞いているうち、「政治の世界とは消防署とは違う大きなロマンがあるんだな」と思うようになりました。市長が落選されたあともたびたびご自宅を伺い、政治や行政について見聞を深めていきました。そのうち自分のなかで「政治家も自分が目指すひとつの目標ではないのか」と思い始めるようになりました。その後、杉夫氏から「今後自分の息子が建設省を退官して衆院選に出馬するんだ」という話を聞かされ、これがひとつの転機だと思い、一成氏の秘書を志願して消防署を辞めました。その際、実家の親と大ゲンカいたしまして、結局、家族4人でアパートに移り住むことになりました。
<命の縮む思いの秘書生活が力になった>
―それはすごい決断でしたね。家族を抱えて。
椛島 わたしはそれまで「お人よし」で通っていましたから、政治家をめざすことでひと皮むけるんだという気持ちもありました。どうせ1回限りの人生ですから。
今から16年前、秘書を5年間務めた頃でしたが、実は私に県議選に出ないかという話がありました。古賀一成氏の後援会でも様々な意見があり、またお金の問題などもあり、出馬はあきらめました。断念の理由はいくつもありますが、最終的には私の度胸の無さでした。そして断念と同時に政治の世界をあきらめました。「こういうドロドロした世界にはなじまない」ということで魚の行商を始めたのです。その後、縁あってある病院に勤めることになりました。
第1回の小選挙区選挙、古賀一成氏が比例で復活当選した選挙ですが、「もう一度、一成氏に力を貸していただきたい」と知人から声をかけられ、病院勤務のかたわら、夜、土日応援に駆け回りました。そして2002年に衆院補欠選挙が行なわれましたが、古賀一成氏は落選しました。その後、秘書に復帰し、翌年の総選挙で当選して第一秘書になったわけです。秘書に復帰してからの約6年間というのは本当につらい、きつい日々でした。まさに命の縮む思いでした。
09年の総選挙後、古賀事務所をやめて、野田国義議員の秘書になりましたが、骨を拾っていただいたという思いです。いまは、秘書をやってきて良かったという思いです。秘書の経験が今回の選挙で活かされました。この4カ月、不安や心配はまったくありませんでした。裸一貫、とことん自分の道を信じ、そしてご支援をいただき感謝の思いは忘れることができません。たとえ落選したとしても何の悔いもないという日々を送ってきました。この4カ月間は社会人になって初めて充実した日々と言ってもいいくらいです。
【文・構成 中村 豊】
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