そこで「駅立ち」のあと、懇意にしている幟屋「指田商会」に直行。旗指物のように背中に刺して使う幟を注文するためにである。旗指物だから、小型でなくてはならない。「高齢者の味方です。」と「本人」の文字。これは目立つ。
帰宅し、早めの昼食をとり、手紙を書き、小休止したあと、打ち合わせに出かけようとして震災にあった。
翌日、「駅立ち」しようと航空公園駅にきて驚いた。私以外の立候補予定者の顔がない。当駅を利用する乗降客の顔が厳しい。何となく静かなのである。無音の中に、足音だけがやけに響く。私はいたたまれない気持ちでその場を去った。
その日を境に、選挙のやり方が変わった。駅立ちや街頭での演説が姿を消した。共産党だけが「反原発」を鮮明にして、街頭演説をはじめた。他の党や無所属の候補者は、党名を隠して「被災者に支援を」と呼びかけ、支援金や物資の提供を求める街宣活動を開始した。どこか、とってつけたような不自然さが漂う。ビラにもマニフェストが消え、被災者への哀悼の言葉と支援の要請だけの文面に変えた。カメレオンのように色を変える。変わり身の速さ。TPO、見事といえば見事だが、後味の悪さだけが残る。これも選挙なのだ。勝つためには何でもやる。
早速、私のスタッフからもチラシの内容にクレームがついた。「震災の被災者への文言を入れるべきだ」。仕方なく、新しいチラシを作った。カンパを基本に選挙資金作りをしている私には痛い出費である。それを駅頭で配れないから、ポスティングに頼らざるを得ない。
またまた困ったことが起きた。3月19日、市内の公民館で行われるはずの講演会が取りやめとなった。計画停電の問題と、公民館が市民の避難場所になる可能性があるという理由からだ。講演会の講師は中沢卓実さん。松戸市の常盤平団地自治会長で、NPO法人「孤独死ゼロ研究会」理事長という肩書きがある。マスコミやメディアに数多く顔を出し、孤独死問題に関して彼をおいて語ることができない権威である。有名人なのである。
中沢さんは私の盟友。拙著『団地が死んでいく』(平凡社新書)取材時、人間的にも多くの示唆を受けた人物で、彼の影響で団地内に「幸福亭」というサロンをオープンさせた。彼がいなければ今の私はない。今だからいうが、彼とある仕掛けをたくらんでいたのだ。
「中沢さんが所沢で講演会を開くチラシ(写真付き)が幅広く撒かれる」⇒「講演会開催」⇒「所沢市でも中沢卓実という名前が人の脳裏に焼き付く」⇒「脳裏から消える前に中沢卓実さんが、私の応援にきてくれる」という図式である。これが頓挫した。さらに駅立ちや街頭演説ができないので、顔を売る機会が減る。新人候補者としては痛手である。もはや、徹底したポスティングを繰り返すしかない。
選挙違反が一番怖い。そこで疑問が生じると選管に出かけ確認した。チラシだけが頼りである。できるだけチラシを大量に配りたい。ポスティングを専門業者に頼む方法もあるが、金銭的にも、また、本当にポスティングしてくれているかを調べる手だてがない。そこで、新聞の折り込みを考え、選管に問うた。答えは「政治活動の範囲なので、問題ない」という見解。
そこで、チラシを急遽1万枚刷り増しして、朝日新聞集配所に持ち込んみ、西部地域(丘陵地帯が多く、ポスティングが困難。高齢者が多い地域)に折り込んだ。これが問題だったらしい。政治的なチラシは、折り込まないというのが、各新聞集配所の暗黙の了解事項だというのだ。私のチラシを了承したのは、震災で折り込みチラシを発注する企業や商店が激減。敢えて了解事項を無視したというのが真相のようだ。実情を知らない素人の強みである。
チラシは告示日直前の4月15日(金曜)に折り込まれ、配布された。すぐに「共感します」という電話が数本入り、効果の程が確かめられた。翌日、顔見知りの民主党の選挙参謀が、「やられた」といいながら事務所に入ってきた。「素人は、だから怖い」ともいっていた。
<大山 眞人>
昭和19年山形市生まれ。早稲田大学第一文学部史学科国史専修卒。学習研究社で女性雑誌、音楽雑誌編集。退社後、ノンフィクション作家。著書に「S病院老人病棟の仲間たち」(文藝春秋・テレビドラマ化)、「ちんどん菊乃家の人びと」(河出書房新社)、「老いてこそ二人で生きたい」(大和書房)、「悪徳商法」(文春新書)、「団地が死んでいく」(平凡社新書)、「楽の匠」(音楽之友社)など多数。「報道2001 老人漂流」(フジテレビ 08年7月 コメンテーター)などテレビ・ラジオに出演。高齢者問題を中心に発言。
※記事へのご意見はこちら
※記事へのご意見はこちら