4月17日(日曜)、震災の傷跡が癒えないまま、市議会選挙は告示された。街宣車を使う候補者は減り、自転車や徒歩で選挙区を回る戦術に変えた候補者もいた。「チーム大山」は、スタッフ全員高齢者。街宣車なくしては選挙にならない。選挙ポスターは、直前に保守系の選挙参謀からお誘いをいただき、他候補のポスターも貼ることを条件に、参加。これに参加しなかったら、選挙の結果が出ても、まだ貼り終えていなかっただろう。素人集団の選挙対策は恐ろしいほど未熟だった。その未熟さは、一週間後の選挙結果となって現れるのだが、逆に、無謀なほどに新鮮に響いたとも思う。「選挙活動」と「広報活動」は当然のことながら違った。後の祭りだった。
初日、8時。ウグイス嬢の「おはようございます」の一声からスタートした。私が住む並木地区は、高層住宅が多く、築年数分だけ高齢化も進んでいる(市内で高齢化率1位)。高齢者は外に出たがらない。街宣車からの呼びかけは有効だと判断した。選挙用のチラシも、「幸福亭」(私が主宰する高齢者のサロン)のチラシも事前に十分に配布していたから、スピーカーから流れる私の生声にもそれなりの反応があると確信していた。それが違ったのである。
「孤独死をなくし......」「悲惨な孤独死を許すことは......」「孤独死ゼロを......」と連呼した。マニフェストの"イの一番"が「孤独死を許しません」なのである。だが、反応がない。窓を全開にして手を振ってくれるとまでは期待していないのだけど、何かが変だ。立候補初体験でも、はっきりと感じとることができる何か。そう、街宣車の窓から見える高層住宅のベランダが、何となく遠くに見えるのである。風景が退いていく。叫べば叫ぶほど高齢者の影が遠くに、小さくなっていく。
絶叫の7日間は詳述を控えたい。66歳の初立候補者は、見事にコケた。得票総数934。46人の立候補者中、45番目。ブービーである。選挙には完敗した。敗因をまとめてみたい。
そもそも「高齢者に特化するという戦術は必ず成功する」という思いこみは、「選挙」という場では正しかったのだろうか。高齢者問題は全国的にトレンドであることは否定のしようがない事実である。でも、それを真正面から取り上げることが得策であったかどうか、再考の余地はある。
それでも、私は「高齢者の味方です。」を旗印にしたことを後悔していない。今回、もし私が通れば、「日本老人党(仮称)」なるものを結成して、全国的な展開を目論むことができただろう。高齢者の義務と権利を声高に叫ぶことも可能だったはずだ。間違いなく、(元気な)高齢者をターゲットにしたベンチャー起業も可能になる。高齢者は死ぬまで現役だから、この層に働く場と購買層が確保されれば、日本の経済は思いもよらない活気を呈するに違いない。そうなれば、高齢者のモチベーションが急騰し、社会に貢献したいという生きる意欲を呼び覚ますことができる。
選挙から1週間後、思いがけなく市内の高齢者(お会いしたことがない)から手紙や電話を頂く機会が増えた。「大山さんの運動(「幸福亭」を基盤とした)を知らなかった」「次回を期待したい」という声が圧倒的だ。選挙資金の大半をカンパで賄い、次回(やるなら)もそうしたいと念じている。
「大山さんの選挙は"市民型選挙"だよ。資金より時間。じっくり広げるべき。何より、高齢者問題は避けて通れない問題だから、自信を持って取り組んで下さい」と、今回応援演説を買って出てくださった中沢卓実さんがいう。そうです。避けて通ることのできない問題、それが「高齢者問題」である。逃げても敵は追いかけてくる。正面から見据え、対処すべきである。連載はこれで一応の幕を閉じるが、私の戦いはまだまだ続く。今回の経験を本にして出版したいと考えている。
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<大山 眞人>
昭和19年山形市生まれ。早稲田大学第一文学部史学科国史専修卒。学習研究社で女性雑誌、音楽雑誌編集。退社後、ノンフィクション作家。著書に「S病院老人病棟の仲間たち」(文藝春秋・テレビドラマ化)、「ちんどん菊乃家の人びと」(河出書房新社)、「老いてこそ二人で生きたい」(大和書房)、「悪徳商法」(文春新書)、「団地が死んでいく」(平凡社新書)、「楽の匠」(音楽之友社)など多数。「報道2001 老人漂流」(フジテレビ 08年7月 コメンテーター)などテレビ・ラジオに出演。高齢者問題を中心に発言。
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