菅首相は二枚舌、三枚舌で権力の中枢に座ってきたが、今回の「首相辞任表明」はさすがに命取りになってきたようだ。近い内(今月末)に首相辞任の事態に追い込まれそうである。この人は若いうちから「総理大臣になる」と公言していたそうだが、「総理大臣になってどうする」ということを語ったことはなかったという。
たしかに菅首相が現ポストに座って1年が経過したが、「日本の国家をどうするのか」を明確にしたことはない。ただ首相ポストに執着する小賢しいところだけが目立つ。この菅首相は「リーダーたる者の無能ぶり」の反面教師として歴史に名を残すであろう。
<健全経営の会社にすることが自分の務め>
福岡地所(株)(福岡市博多区)の八木聖二社長が、8月の株主総会で社長の座から身を退くことが発表された。「65歳で引退する」と見られていたが、1年過ぎた66歳(見方によれば65歳ギリギリ)で決断した。オーナー・榎本一彦会長の慰留で1年延びたのが事の真相である。この八木氏ほど、自分の役目を鮮明にして、目標達成したら潔くトップから身を退く潔さを実践した人物も珍しかろう。我が身の保身に汲々する世相の中で、清々しい立ち回りをしてくれた。
八木氏は1945年7月広島生まれ。東大卒業をして1968年に日本債券信用銀行(現在のあおぞら銀行)に入行した。榎本一彦会長とは同行名古屋支店で共に勤務したという。八木氏はトップの出生街道をひた走り、40代の若さで常務に就いた。同行の経営陣のスキャンダルに愛想を尽かした八木氏は退職し、98年に福岡地所へ入社した。専務を経て2002年に社長へ昇格したのである。
この人事抜擢には、オーナー榎本会長の学習蓄積がある。福岡におけるオーナー経営者の事業継承の失敗を見てきた。「自分の経営流を踏襲する輩では失敗する。俺の不得意分野をカバーできる経営器量を持つのは八木に託すしかない」と決断した。バトンタッチした以上、榎本オーナーは極力、経営に口を挟まないように我慢した。ここが榎本氏の偉いところであった。また仮に口を挟むことがあっても「榎本会長!!ここは私に任してくれた以上、干渉しないでください」と平然と語る八木社長も役者であった。
たしかに2002年、福岡地所は大きな曲がり角=岐路に立たされていた。キャナルシティ博多への投資を含めた福岡地所および関連会社の負債は莫大であった。所有不動産も時価が下落していた。時代は負債のオフバランスが求められていたのである。拡大路線の先陣を切っていた榎本会長の、経営手法の転換が余儀なくされていた時期だ。ある意味では『堅守経営』を信条としている八木氏の到来が必然であったといえる。
まず同氏は、自分の役割をシンプルに明示した。「福岡地所の借入を圧縮して健全な会社にすることだ」と目標を定めた。単純に不動産を売却することに奔走したのではない。時代にマッチした金融手法を生かして自社負債を外部化した(福岡リートへの付け替え)。新金融テクニックを駆使して一時は業績を伸ばした会社があったが、ことごとく潰れていった。福岡においては福岡地所のみが活用して負債軽減に成功し、新たな躍進のチャンスを掴んだ。この最大の功労者は八木聖二社長なのだ。「健全会社にした以上、自分の役目は終了した」と身を引くことにしたのである。
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