かつて産炭地として隆盛を極めた飯塚市。しかし、エネルギー転換のなかで経済構造の変化を余儀なくされ、人口規模も一進一退の状況が続いている。そのなかでも、企業誘致や中心街活性化などで再建を模索する同市の取り組みから、今問われている地域力について考える題材としてみたい。
<中心市街地活性化>
中心市街地は長い歴史のなかで、飯塚の顔として栄えてきた。古くから人が集まり、交流する生活と文化、産業の中心地として多くのまつりやイベントが開催されるなど、地域コミュニティが受け継がれ、文化や伝統が育まれた。しかし、近年相次ぐ郊外店の出店による商業機能の低下、高校の郊外移転、少子高齢化が急速に進むなかでの後継者不足など、中心市街地は疲弊の一途をたどっている。このような状況が続けば、まつりやイベントが中心市街地からなくなり、地域コミュニティが崩壊するとともに、飯塚市が魅力や特徴のない郊外型、ロードサイド型の商業施設に依存した都市構造となることが危惧されている。
ただし、地権者の複雑さが再建の障害となっている点も見受けられる。また、たとえば本町商店街内にある「ダイマル百貨店」跡地では、建造物が老朽化しておりアスベストの問題なども浮上している。08年4月21日に本町商店街付近で発生した火災跡地も、関係者・地権者が100人以上おり、11年度から15年度で整備していく方針だが、もう少し時間がかかるという意見もある。
中心街南の遠賀川付近には、91年3月に竣工した「イイヅカコスモスコモン」(飯塚市文化会館)という、飯塚市立の多目的ホール施設がある。本来、ここにイオン(旧ジャスコ)が来る予定だったが、商店街などの反対にあって穂波地区で出店した。おかげで街の中心地は2㎞ほど西に移り、「活性化に失敗した」という声もある。中心街活性化は一筋縄ではいかなさそうだ。
とはいえ、夏の市民祭として親しまれている飯塚山笠(新流、西流、東流、菰田流)は2010年で復活して40周年を迎えた。今年5月に二瀬流が加わり5流で再スタートを切るなど、新たなまちおこしの機運も出てきている。
地元で自販機設置などを手がける㈲イイヅカベンディング代表取締役専務の山喜多洋志氏は、「若者に元気がなくなってきている。もっと若い力が立ち上がってドンドン前に出てほしい。そういう意味では、山笠の流が増えたのは良いこと。一方で、若者にチャンスを与える場をもっと地元の人がつくってほしい。たとえば商店街には空き店舗がたくさんある。ここを若い人の感性で安く使えるようになれば、もっと活気がでてくると思う」と語る。
<鯰田工業団地の現状>
06年度から07年度にかけ、自動車業界の動きが活発化したこともあって、飯塚市は自動車関連企業の誘致を目的として、飯塚オートレース場北側の炭鉱跡地に「鯰田工業団地」を開発した。企業誘致においては、飯塚市は08年度に名古屋事務所を開設し、2名の職員を常駐させるなどしてセールスを仕掛けてきた。
同工業団地は元来、三菱マテリアルが所有していたボタ山の跡地(30ヘクタール)。07年に飯塚市が譲り受けたもので、08年度から総工費20億5,000万円を投じた(一部によれば25億円とも言われる)大型プロジェクトとなった。しかし11年7月現在、いまだに企業は1社も誘致されていない。リーマン・ショックがなければ―という仮定の話をしても仕方ないが、行政側の目論見が大きく崩れたという声が上がるのも無理はない。
エネルギー革命が起こり、70年代で炭鉱が閉山した後は、筑豊地区は人口が減少し経済も縮小していった。一方で飯塚市は、九州工業大学、近畿大学を誘致し、現在ではこれらを核に新産業を創造する情報産業都市、学園都市として位置している。また、85年の有料道路・八木山バイパス開通にともなう道路網の充実や、自動車産業界にも牽引され、近年は若者も多く賑わいを見せている。
飯塚市は、産炭地から転換してIT特区や自動車関連産業といった分野を伸ばそうとしたが、いずれも景気に大きく左右される業種で、現在は行政の取り組みは一頓挫していると言わざるを得ない。とはいえ、一定の活性化の材料はそろっている。これらをどう調理するか、それには民間企業、そして市民の力の集結が不可欠だ。
【大根田 康介】
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