東日本大震災の発生にともなう津波の被害が大きかった宮城県石巻市。同市のなかでもことさら被害が大きかった地域のひとつが石巻市釜谷(かまや)地区である。同地区は各メディアに取り上げられたように多数の児童が死亡・行方不明となった石巻市立大川小学校の校区。新北上川(追波川)河口から約5キロに立地しており、これまで津波の被害をほとんど心配されていなかった地域であった。『3月11日』までは――。
<前回のつづき>
当初、仮設住宅の建設がはかどらず、絶対数が不足していたため入居希望者に対して抽選が行なわれた。たとえ抽選で漏れたとしても、いずれは入居できると周囲の人たちも思っていた。しばらくして高橋氏一家も入居が決まり、親類宅から引っ越しをした。これで最低限の生活の基盤ができたと胸をなでおろしたが、未曽有の大震災はさまざまなものをもたらした。そこには被災した人たちでさえ温度差があった。
高橋氏と同じ地区の仮設住宅に住む自営業者の佐々木氏(40代)は、震災後、自らの仕事のほかにボランティア団体の活動に従事している。少しでも自分の力が役に立つのなら、との思いからの行動である。
そのようななかで、最近目の当たりにする腹立たしいことがある。それは行政やボランティアが「何かしてくれるのを待っている人たち」の存在という。避難所から仮設住宅に移れば、食事は自分で用意する必要がある。当然、光熱費も自費である。避難所にいれば、3度の食事は支給され、炊き出しをしているボランティアもいる。支援されることに慣れてしまったのか、自分で立ち上がろうとしない。さすがに目に余る行為が横行すれば注意する。時には「私は被災者だ」と食って掛かってくる人もいる。これではまるで「たかり」ではないか、と同じ被災者として情けないと佐々木氏は憤慨する。このような状況では、本当に支援が必要な方へのサポートがおろそかになる可能性がある。
他方、震災発生から5カ月が過ぎた現在、悲しい知らせが届くようになった。家族や近親者を亡くし、家を流された人の中には将来を悲観し自ら命を断つケースが増えているようだ。
何をもって「復興」とするのかの定義にもよるだろうが、一般的に考えれば自立した生活が可能になることであろう。そのための基盤は満足とは言えないだろうが国を始めとした行政や企業、ボランティ団体が支援している。被災者の気持ちを理解するのは難しいだろう。しかし、酷な言い方となるだろうが、生きていくためには自らの手で立ち上がるしかないのだ。
【新田 祐介】
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