現在、発電に関する新エネルギーについての議論が盛り上がっている。ではそもそも、現在の電力体制はどのような歴史を辿ってきたのだろうか。ここでは、「電力の鬼」と言われた松永安左エ門(まつなが・やすざえもん、以下松永)の生い立ちから電力事業への関わりまでを見ることで、改めて電力体制のあり方について再考する材料としたい。なお、今回の取材にあたって、「壱岐松永記念館」管理人の定村隆久氏に、事実関係の確認や画像使用などの件でご協力いただいた。以下、定村氏の言葉を交えながら、松永の人物像と電力会社の歴史に迫ってみよう。
<福博電気軌道の設立>
隠遁生活のなかで書物を読みあさっていた松永に、転機が訪れる。1908(明治41)年、佐賀の広滝水力電気の監査役に就任したことで、電力事業と関わることになったのである。大都市圏で相次いで路面電車が開通していた時代の1909(明治42)年、のちの東邦電力となる福博電気軌道の設立に福澤とともに参加し、福澤を社長に立て、自らは専務となった。
その後、名古屋電燈・関西水力電気が合併した関西電気と、福博電気軌道・九州電気(旧・広滝水力電気)・博多電燈が合併した九州電燈鉄道が大合併して、1922(大正11)年に東邦電力が誕生。社長に伊丹弥太郎、副社長に松永が就き、九州北部、近畿、中部(1府11県15市112町596村)におよぶ事業を行なうようになった。
「隠遁生活の前に石炭で大儲けした頃、福岡・北九州で知人が多くできました。そのなかのある人から路面電車を開設したいという話があったとき、福澤さんと松永翁も儲かっていた時期でしたから、『大丈夫』と返事していました。そして、丸三商会の破産後にOKが出て、再び話が持ち上がっていましたが、資金調達のため福澤さんに相談したら、『そんなもんやめろ』と言われたそうです。しかし、あきらめの悪い松永翁は『再起のチャンスだから、やめるわけにはいかん。これをしなかったら俺は九州には帰れん』と言ったのですが、福澤さんは取り合いませんでした。
松永翁は『じゃあ自分1人でします』という言い方をするわけですが、福澤さんは性格上、蹴ってしまっても自分の弟分にはいろいろ気にかける人です。松永翁が本気で動き出したものですから、自分の影響力を残しておくためにも、三井と三菱から必要だった60万円のうち半分の30万円を福澤さんが調達します。一方の松永翁は、名古屋の財閥の人たちや福岡出身の杉山茂丸さんといった仲間内から残り30万円を調達しました。同じく福岡の松本治一郎さんも、松永翁の最大の協力者の1人として路面電車開設に大きく貢献しました。
工事現場監督や市場調査も自ら引き受けています。あきらめの悪い、しつこい人、言い方はいろいろできますが、松永翁はとにかく自分がやろうとしたことを成し遂げようとする意志が、いかに強かったかということです」(定村氏)。
【大根田 康介】
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