現在、発電に関する新エネルギーについての議論が盛り上がっている。ではそもそも、現在の電力体制はどのような歴史を辿ってきたのだろうか。ここでは、「電力の鬼」と言われた松永安左エ門(まつなが・やすざえもん、以下松永)の生い立ちから電力事業への関わりまでを見ることで、改めて電力体制のあり方について再考する材料としたい。なお、今回の取材にあたって、「壱岐松永記念館」管理人の定村隆久氏に、事実関係の確認や画像使用などの件でご協力いただいた。以下、定村氏の言葉を交えながら、松永の人物像と電力会社の歴史に迫ってみよう。
<皆から「本物」と評される>
それではなぜ、そのときGHQが松永を信用したのか。「あいつは信用できる」と言わしめたのが、GHQをも支配していた当時のアメリカ財界である。
話は、松永の東邦電力時代にまでさかのぼる。当時、関東大震災による経済混乱のなかで復興資金を得るため、日本初のアメリカドルによる外債が発行された。そのなかで、社債募集に悩んでいた5大電力会社もニューヨーク市場の好調ぶりに目をつけ、相次いで現地で外債を発行。安左エ門が率いる東邦電力もその1社だったが、この東邦電力だけが戦時中であっても外債を96%返した。
「戦争と借金は別問題だということで、これは事業家としては見上げたものです。これが当時のアメリカ財界を動かした1つの大きな、松永翁にとって幸運なことだったと思います。アメリカ政府は共和党と民主党がありますが、それを推した財界の社長たちが大臣になっていました。それがちょうど良かったのでしょう。GE(ゼネラル・エレクトリック)をはじめ銀行団幹部など、松永翁と戦前関係があった人たちがアメリカで成功していたということです。だから、『あいつが言うことは間違いない』となり、廃止になりそうだった松永案が最終的に採用されたのでしょう」。
最終的に松永はGHQを説得したが、今度は日本政府、とくに通産大臣だった池田隼人の説得が待っていた。「このとき池田さんと松永翁をつなぐ重要な役割を果たしたのが、あの白洲次郎さんです。もともと白洲さんは吉田茂さんの使いとして、松永翁に『もういい加減、妥協してください』と言いにきたのです。
そのとき、白洲さんは松永翁の執務室の机に腰かけて、指を差しながら『爺さん、あんたの考えはもう古いよ』と言い放ったらしいのです。しかし、瞬間湯沸かし器みたいな性格だったはずの松永翁は、なぜかニコニコ笑っていました。白洲さんが帰った後、部下に『おい見たか、あいつはわしの若い頃にそっくりだぞ』と言ったらしいのです。結局、そこで松永翁と白洲さんの接点ができ、白洲さんも『この爺さんは本物だぞ』ということがわかっていったそうです」(定村氏)。
【大根田 康介】
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