佐賀県内で50%近くの普及率を誇る佐賀新聞。第1号発刊より127年が経過、幾多の変遷を辿り、県内NO1の地位を確立させた。同新聞を発行する(株)佐賀新聞社は、業界の先駆者的な活動を行なってきたが、現在、九州電力の玄海原発再開に関連して、政治との密接な関係が明らかになった。(株)佐賀新聞社とは、どのような企業体質なのだろうか。創業の歴史から振り返っていく――。
<創業者・江副靖臣>
佐賀新聞社のルーツは、1884年(明治17年)8月1日。江副靖臣氏・石丸勝一氏・西村萬次郎氏ら地場有力者が出資し資本金300万円で創業。同日に「佐賀新聞」として号外を発行。同月24日に第1号の日刊紙を発行。佐賀新聞社としてのスタートを飾った。本社屋は松原神社東側の佐賀郡新馬場(現佐賀市松原3丁目)。
初代社長(社主)は、元佐賀藩士で明治初期に起こった士族の反乱である佐賀の乱にも加わった江副靖臣氏。江副氏は、83年(明治16年)に佐賀活版社を設立し、翌年、佐賀新聞社を設立した。さらに86年(明治19年)弁護士の資格を得てからは佐賀市の市制実施などに尽力。また、87年(明治20年)に設立された九州鉄道の取締役、89年(明治22年)から佐賀市議会議員を22年、うち16年間議長を務めている。その後、さらに県議会議員を経て、1912年(明治45年)5月の第11回総選挙に佐賀県佐賀市区から出馬し、衆議院議員に初当選している。ちなみに、「佐賀新聞」創刊の題字は、佐賀七賢人のひとりである副島種臣翁によるものである。
<第2創業期・中尾都昭>
1936年(昭和11年)8月、当時の社長であった野口藤三氏が急逝。社長の代理として大阪毎日新聞の前佐賀支局長であった粟野荒野氏をはじめ、中島哀浪氏、牧瀬苔花氏、於保正信氏、宮地重夫氏らが経営の舵取りを行なったが、社長としての機能を果たせず、経営難に陥った。
その経営難を救出したのが第4代目社長(社主)となる中尾都昭氏である。中尾氏は、1918年(大正7年)海軍を退役後、佐賀に帰り肥前日日新聞(政友会機関紙)の営業に携わった。新聞社の経営を始めたのは26年(大正15年)の「農村青年新聞」から。翌年同紙を「佐賀自由新聞」(毎週日曜刊行)と改題。31年(昭和6年)7月、念願の日刊紙「佐賀毎夕新聞」を創刊。新聞社経営が軌道に乗り始めた頃に、経営難であった当時の佐賀新聞社を買収し、「佐賀毎夕新聞」を廃刊。新生「佐賀新聞」を38年(昭和13年)11月に再スタートさせた。
41年(昭和16年)5月、国家の1県1紙統制に従って、「佐賀新聞」と「佐賀日日新聞」を合併し、「佐賀合同新聞」とした。44年(昭和19年)5月、"合同新聞"ブランドが浸透・普及できたとして、再び「佐賀新聞」として以来、佐賀県唯一の郷土紙として地盤を固めた。
中尾氏は、網元の次男として出生。学卒後は一旦、漁師の家業を継いだが、18歳で海軍を志願。第1次世界大戦に従軍し、功により勲八等瑞宝章と従軍記章を授与している。いわゆる『叩き上げ』の人物である。中尾氏の信条は"他力本願"。これは現在、使われている他人任せ、他人依存、成り行きという使い方ではなく、「自力によっては我が道は閉ざされ、他力によってのみ道は開ける。すなわち社内において先ず人を得ること、社員を信じる、社員からしたわれる」という意味とされている。
中尾氏は、新聞社の経営においては、「新しい血の導入と"和"を重んじ、人間を大切にする」「権勢欲に絶対的無心」「新聞は社会の木鐸。すなわち、新聞を利用するような行動、名誉心を持ってはいけない」という3点を柱にした。これをもって、当時経営危機に瀕していた「佐賀新聞」を再建し、第2創業期を築いたのである。そして以降、現在に至るまで、中尾家が「佐賀新聞」のトップとして君臨する。
| (2) ≫
<COMPANY INFORMATION>
(株)佐賀新聞社
代 表:中尾 清一郎
所在地:佐賀市天神3丁目2番23号
創 業:1884年1月
資本金:3,000万円
売上高:(10/3)49億7,700万円
*記事へのご意見はこちら
※記事へのご意見はこちら