10月3日、山口FG傘下の北九州銀行(本店:北九州市)が開業した。その源流をなす山口銀行の成立の経緯と歴史について紹介する。
<前身の第百十銀行の沿革(1)>
山口フィナンシャルグループの源流をなす山口銀行の前身である第百十国立銀行は、1878年(明治11年)11月25日に旧長州藩士たちが、同藩出身で、政治家としてだけではなく実業家としても、明治政府と関わりの深い井上馨などの勧めによって、金禄公債を主な原資とする資本金60万円で設立し、翌年の3月10日に営業開始した銀行が始まりである。
1603年に征夷大将軍に任官した徳川家康が創設した江戸幕府。二百六十年以上続いた江戸幕府を薩摩藩とともに倒した長州藩。戦国時代、中国地方一の勢力を誇りながらも、外様大名として辛酸をなめた毛利家に連なる者が設立した由緒ある銀行である。
初代頭取には士族総代の右田毛利家当主であった毛利親信(藤内)が就き、本店を県庁が所在する山口県下山口米屋町に置いたが、その後本店を赤間関区(後の下関市)に移転している。現在も米屋町商店街があり、その一帯には、山口銀行米屋町出張所やみずほ銀行山口支店がある。
右田毛利家は、江戸時代の毛利氏の一門家老のひとつであり、毛利元就の七男・毛利元政(天野元政)を祖とし、元政は、1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いの後、周防三丘(現在の山口県周南市)に1万石を与えられた。元政の嫡男である元倶が同じく一門家老であった宍戸家と領地を交換し、周防右田(現在の山口県防府市)に移封され、1万3,000石を与えられた。以降は苗字を「毛利」に戻し、毛利藩の一門家老となる。
なお家格は一門家老中では、宍戸家に次ぐ家格であった。現在の防府市高井一帯に右田の名前は今も残っており、山口銀行右田支店がある。
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