<山口銀行~前身の第百十銀行の沿革(3)>
山口フィナンシャルグループの源流をなす山口銀行の前身である第百十国立銀行は、1880年(明治13年)に本店を山口米屋町から、山口県下長門国赤間関(あかまがせき)の西南部町(にしなべちょう)に移転している。
赤間関区は、1878年(明治11年)郡区町村編制法により、東京15区、大阪4区、京都2区、以下1区の名古屋、横浜、堺などと共に区が置かれており、当時の日本のなかでも有数の商業地域であった。
赤間関は、陸路の山陽道と山陰道の結節点にあたり、山陽道(西国街道)の終点であった。海路は近世に北前船(西廻り航路)の経由地であったことや、さらには海峡を挟んで九州と対峙する位置にあったこともあり、古来より陸と海における交通の要衝であり続けた。
陸路は現在の国道9号の終点であることや国道191号の起点であること。海路は現在下関港が特定重要港湾に、下関漁港が特定第3種漁港にそれぞれ指定されていることが挙げられる。
日本の大陸への玄関口である下関と大韓帝国の釜山との航路は、1905年(明治38年)に開設された関釜(かんぷ)連絡船を起源とする。1910年(明治43年)の日韓併合により日本の国内路線になり、その後は日本と朝鮮、のちには大陸側の鉄道を経由して満州やヨーロッパをもつなぐ重要路線となった。太平洋戦争により中断していたが、1970年(昭和45年)6月、25年ぶりに関釜フェリーの運航が再開され、現在は毎日就航している。
1888年(明治21年)4月、法律第1号として市制および町村制が交付され、翌年4月1日からこれが施行された。この時、赤間関市は日本で最初に市制を施行した全国31の都市のひとつとして誕生した。山口県ではただひとつの市としてスタートしている。
新生赤間関市は人口3万739人、面積5.36平方キロ。御裳川(みもすそがわ)から伊崎(いざき)に至る、海岸沿いの細長い地域が市街地だった。
その後町村合併が行われて下関市域は拡大しているが、今でも当時の赤間関市内は、旧市内と呼称されることがある。
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