<山口銀行前身の第百十銀行の沿革(4)~日本銀行の創設>
明治政府は1871年(明治4年)8月29日、在東京の知藩事を皇居に集めて廃藩置県を命じている。王政復古に次ぐ第2のクーデターとも言われる。
明治政府は廃藩置県の詔勅を機に、藩札回収令を発布し各藩札を新貨幣単位(圓、錢、厘)により価額査定し、実交換相場による藩札回収を始めた。
それまでは、太政官札・民部省札などといった藩札類似の政府紙幣、旧幕府領に設置された府県のいくつかが発行した札、新政府が各地の商業中心地に開設させた為替会社や通商会社が発行した札などと並び、藩札に円銭厘の単位を示した大蔵省印が加印された藩札が、新貨交換比率が設定された寛永通寶銭などの銭貨とともに使用されていた。
明治政府にとっても通貨の発行は、統一国家であることを内外に示す喫緊の課題であった。しかし新貨鋳造が間に合わなかったため、旧藩札に新価額を押捺して流通させていたが、1874年(明治7年)から新貨幣の鋳造が進み、ようやく交換が開始され最終的に処理が完了したのは5年後の1879年(明治12年)6月であった。
1877年(明治10年)、西郷隆盛を盟主とする士族の武力反乱である西南戦争が、九州の熊本県、宮崎県、大分県、鹿児島県
で勃発。明治初期の一連の士族反乱のうち、最大規模であり、日本最後の内戦であったが、官軍の勝利に終わった。
国内の治安が回復したことを受けて、明治政府は、1881年(明治14年)に三井銀行の為替方を廃止して、日本銀行創設のため翌年6月に日本銀行条例を公布している。
日本銀行は、1882年(明治15年)10月10日に開業し、同年12月15日には大阪支店を開設して、本格的に産業育成に取り組むことになった。
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