<山口銀行の前身、第百十銀行の沿革(6)~赤間関市から下関市>
第百十国立銀行は、本店を山口米屋町から山口県下長門国赤間関区南部町に移転したが、1889年(明治22年)4月1日、日本で最初に市制が施行されて、赤間関区から赤間関市となった。
その時に市制に移行したのは、全国でわずか31の都市しか指定されなかった。
山口県ではただひとつの市として赤間関市が誕生したが、1902年(明治35年)6月1日に、赤間関市から現市名の下関市に改称している。
下関市に市名改称したのは、幕末攘夷戦の時、オランダを含めた四国連合艦隊軍との戦争の記録に「下関戦争」と記載されていることや、また朝鮮半島の覇権を争った「日清戦争」(1894年7月~1895年3月)に勝利。1895年(明治28年)4月17日、春帆樓(しゅんぱんろう:現在はオリックスグループが経営)において、大日本帝国の全権大使(内閣総理大臣)伊藤博文と、大清帝国の全権大使である李鴻章とが締結した日清講和条約にも「下関条約」とあり、国際的にも歴史的にもよく知られていたことから、市民も書き物をつくる際に、早く統一した市名を求めていたことによる。 比較的簡単に全国的にも希な市名改称が行なわれたのも、明治政府の中心に長州出身者がいたからだと言われている。
交通の要衝であることは、国土防衛上重要な地点であることも意味する。明治期から終戦にいたるまで、下関から門司にいたる関門海峡沿岸一帯は下関要塞地帯に指定され、写真撮影や地図作成などが厳しく制限された。現在も市内各所に当時の標柱や砲台跡など、要塞地帯の遺構が残っている。
戦前は、関釜連絡船就航によって中国本土や朝鮮半島への玄関口として活況を呈していたが、戦後は以西底引きを始めとする水産業の衰退や関門トンネル、関門橋の開通により通過都市となったため、山口県内における経済的な地位も相対的に低下してきている。
その後、平成の大合併により2005年2月13日、下関市は豊浦4郡の菊川町、豊田町、豊浦町、豊北町と合併(新設合併)して、人口30万人、面積716平方キロの中核都市の下関市として新しく発足したが、2011年10月1日現在の推定人口は27万8,650人と人口減少に歯止めはかかっていない。
*記事へのご意見はこちら
※記事へのご意見はこちら