<山口銀行前身、第百十銀行の沿革(7)~株式会社第百十銀行に改称>
第百十国立銀行は1892年(明治25年)に開墾事業に投資したが失敗し、三井財閥と関係の深い井上馨が間に立ち、救済を取りまとめている。
翌年の1893年(明治26年) 、本店を同市の東南部町に移転している。旧本店を同年10月1日に新設された日本銀行西部支店に売却している。日本銀行西部支店の初代支店長は日銀支配役の高橋是清であった。
1898年(明治31年)12月に日銀西部支店の門司移転にともない、百十銀行は同地を買い戻して再び同行の本店としているが、一連の動きは井上馨の尽力があったと言われている。同年(明治31年)11月 に 国立銀行としての営業満期により、株式会社百十銀行と改称してスタートを切ることになった。
スタートして間もない1900年(明治33年)前後から1905年(明治38年)にかけて、日清戦争後の反動による経済の停滞から、(株)百十銀行は経営危機に見舞われることになった。相談を受けた井上馨は、炭鉱業の先達である貝島太助と麻生太吉に依頼して調査したところ、
同行の貸付先である炭鉱の7割~8割が不良債権との報告を受けた。
注1:貝島太助は貝島財閥の創始者:福岡県筑豊地方で石炭採掘事業をはじめ、次々と炭鉱を開発し、西南戦争や日清戦争による石炭価格の暴騰により巨利を得て「筑豊の炭坑王」の異名をとる。麻生太吉、安川敬一郎とともに、「筑豊御三家」とよばれ
た。
注2:麻生太吉は麻生商店を中核に電力、鉄道、セメントなど多角的に事業を展開。政財界の重鎮で貴族院議員。麻生太郎元総理の曽祖父にあたる。
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