<山口銀行前身、第百十銀行の沿革(8)~毛利公爵家から縁切り>
これに驚いた井上馨は、救済策を講じるため杉孫七郎らと井上馨の内山田邸でたびたび会合し、メキシコ弁理公使を辞めて帰国していた室田義文 (ハルピンで伊藤博文が狙撃された折の随行員) を頭取にして、井上馨がサポートすることになった。
第百十銀行の頭取に就任した室田義文には銀行経験は一切なかったが、井上の指示に従って、日本銀行の山本達雄総裁や三井財閥の益田孝(三井物産初代社長)らを動かし、日本銀行、十五銀行、三井銀行、第一銀行、鴻池銀行などの諸銀行と毛利公爵家からも融資を仰ぎ175万円を集めることに成功した。室田の補佐役には、毛利公爵家からの出向というかたちで水谷耕平を取締役支配人に就けて財務整理をしたが、あまりにも不良債権の額が多すぎて到底処理することはできなかった。
結局、不良債権は1905年(明治38年)に毛利公爵家が全額を実質的に負担することで解決をすることになったが、第百十銀行は毛利公爵家から縁切りを申し渡されることとなった。
(注)杉田孫七郎は杉家の養子となり、藩校明倫館(めいりんかん)で学び、吉田松陰にも師事した。藩主の小姓を務めた後、1861年(文久元年)、藩命により江戸幕府の遣欧使節である竹内保徳・松平康英らに従って欧米諸国を視察している。帰国後の下関戦争では井上馨とともに和議に尽力し、元治の内乱では高杉晋作を支持しつつも、保守派との軍事衝突には最後まで反対した。四境戦争では長州軍の参謀としても活躍した。
明治維新後には山口藩副大参事となり、廃藩置県後の1871年(明治4年)、宮内大丞、秋田県令を歴任後に再度宮内大丞を務める。1874年(明治7年)に宮内少輔、1877年(明治10年)に宮内大輔、1878年(明治11年)に侍補を兼務、後に皇太后宮大夫に転じる。1887年(明治20年)に子爵に叙せられている。第百十銀行が不良債権処理を終えた翌年の1906年(明治39年)に枢密顧問官に転じている。
四境戦争とは、徳川幕府による第二次長州征伐に対する長州軍の呼称。
第14代将軍徳川家茂は自ら江戸城を発して上洛の途につき、1866年5月には10万石削封などを内容とする長州藩処分を打ち出したが、長州藩は応ぜず、6月7日の大島口(瀬戸内海)での戦闘を手始めに、6月14日には芸州口(広島方面からの山陽道)、16日には石州口(島根方面からの山陰道)、17日には小倉口(関門海峡)と、いわゆる四境で幕府軍と長州軍の戦闘が開始された。結果は幕府軍の敗走に終わり、7月に家茂が大坂城で死去したことを契機に撤兵したが、以降、幕府はその権威を失墜し大政奉還へと向かうことになる。
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