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「北九州銀行」を誕生させた山口FGの歴史(9)
発信!北九州
2011年11月 8日 07:00

<山口銀行の前身、第百十銀行の沿革(9)>

桂太郎.jpg 第百十銀行の再建に尽力した井上馨は、第4次伊藤内閣(1900年10月19日~1901年5月10日)で、伊藤博文内閣総理大臣が単独辞任したため、大命降下を受けて内閣総理大臣に就任する予定であったが、政局運営に見通しが立たないと判断し総理大臣就任を辞退。義理の子である桂太郎(第一次桂内閣:1901年6月2日~1906年1月7日)にその地位を譲っている。伊藤亡きあと、西園寺公望や松方正義などとともに元老として、政官財界に絶大な勢力を誇っていた。1915年9月1日、79歳で没している。

 第百十銀行は1908(明治41年)、三井銀行下関支店が閉鎖して門司に移転することになったため、営業を譲り受けると同時に本店を同所に移転した。第百十銀行にとっては都合の良いことに、三井銀行下関支店の預金600万円の内100万円の引継ぎを受けることであった。
 営業譲渡時の三井銀行下関支店長は井上馨の甥 (井上馨の兄、光遠の三男) にあたる森祐三郎であった。

 1912年(大正元年)に京都起業銀行の取り付け騒ぎの影響を受け、第百十銀行でも取り付けが発生している。翌年、第百十銀行再建のために、桂太郎首相兼蔵相(第3次桂内閣1912年12月21日~1913年2月20日) は、自ら人選して植村俊平を頭取に就任させている。井上馨は義理の親子の関係にある桂太郎を動かして再建に力を貸したと言われている。
現代では時の総理大臣が、一地方銀行救済のためにトップを人選することなど考えられないが、当時は藩閥政治のなかで、郷土である長州の銀行への愛着があった証拠かもしれない。

(つづく)
【北山 譲】

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