<山口銀行前身、第百十銀行の沿革(11)~鈴木商店の発足(1)>
1914年(大正3年)に勃発した第一次世界大戦は1918年(大正7年)11月に終息した。戦争景気を謳歌し大きくなった日本経済は、1920年(大正9年)に反動恐慌に陥った。
その傷も癒える間もなく、1923年(大正12年)9月1日に関東大震災が発生し、大正末期の金融界は、政府および日銀の救済により、表面を取りつくろった銀行が多く存在していた。
第百十銀行も昭和の金融恐慌の影響、とくに鈴木商店の系列企業への融資により、経営危機に陥ることになるため、以下鈴木商店について詳述していく。
1.昭和の金融恐慌の発生
1927年(昭和2年)1月14日に四国の今治商業銀行で取り付けが発生。同年3月には各地に飛び火することになった。この間、帝国議会では、震災手形整理法案が政争の具となり、その審議の過程で鈴木商店と臺湾銀行との関係が明らかになる。
(1)鈴木商店について
・1874年(明治7年)、兵庫の弁天浜に川越藩の鈴木岩治郎が、当時番頭をしていた辰巳屋の
暖簾分けで鈴木商店を開業する。
・1886年(明治19年)、のちに鈴木商店を支える金子直吉が鈴木商店に丁稚奉公に入る。順調
に売上を伸ばし神戸八大貿易商のひとつに数えられるようになる。しかし、日清戦争が勃発した1894年(明治27年)に鈴木岩治郎が死去。廃業の提案をよそに夫人の鈴木よねが、金子直吉と柳田富士松の両番頭 に委任し事業を継続する。その直後、金子は樟脳の取引で損失を出すが、鈴木よねはそのままの体制で経営を続ける。
・1899年(明治32年)、後藤新平台湾総督府民政長官が目論む樟脳の総督府専売に、反対す
る業者を金子直吉が切り崩した功績を認められ、 鈴木商店は台湾樟脳油の販売権を獲得し、
躍進の足がかりをつかむことになる。
・1902年(明治35年)、それまで個人商店だったが、出資金50万円で合名会社鈴木商店へ組
織変更をしている。
・1905年(明治38年)、神戸製鋼所の前身の小林製鋼所を買収。
・1906年(明治39年)、ミカドホテル新館を取得し、本店を神戸市栄町通から相生町に移転する(後の1918年米騒動の焼き討ちの標的となった建物)。
以降、大正時代には下記の会社を破竹の勢いで次々と買収していく。
・1915年(大正4年) 播磨造船所、日本金属工業、南洋製糖ほか
・1916年(大正5年) 帝国染料ほか
・1917年(大正6年) 大田川水電、浪華倉庫、南朝鮮鉄道、信越電力ほか
・1918年(大正7年) 日本冶金工業、旭石油、東洋マッチ、帝国樟脳ほか
・1919年(大正8年) 帝国炭素、国際汽船ほか
・1920(大正9年) 帝人、新日本火災保険
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