<山口銀行前身の第百十銀行の沿革(11)~鈴木商店の隆盛(2)>
1914年(大正3年)第一次世界大戦が始まった。当時戦争はすぐに終結し戦争被害による影響で物価が下がるというのが大方の見方であったが、鈴木商店は海外電報などを駆使して、戦況情報を収集。物価は高騰すると読み、世界中で投機的な買い付けを行なう。
鉄、小麦、船などについて日本を介さない三国間貿易を始めるなど(ちなみにこの三国間貿易を手がけたのが、当時ロンドン支店勤務だった高畑誠一である)、独創的な手法で売り上げが急拡大する。1919(大正8)年~1920(大正9)年の全盛時代、鈴木商店の売上は16億円で、当時の日本のGNPの約1割に達すると言われ、この額は三井財閥の三井物産や三菱財閥の三菱商事を遥かに上回っていた。また、当時のスエズ運河を通過する船の一割は鈴木商店所有といわれるぐらいの隆盛を誇り、第一次世界大戦での塹壕の土嚢には鈴木商店のロゴ(菱形SUZUKIの略記「SZK」)の入った小麦袋が大量に使われたと言われる。その鈴木商店に資金を提供していたのが臺湾銀行であった。
彗星の如く現れた新興の鈴木財閥の全盛期に、「好事魔多し」の例えの通り、既存勢力からの妬みや中傷から、将来の鈴木商店の破綻を暗示するかのような大きな事件に見舞われることになる。
その発端は1918(大正7)年7月23日、富山県魚津から始まった米騒動の際に大阪朝日新聞は、鈴木商店は米の買い占めを行なっている悪徳業者であると攻撃した。この報道を受けて、鈴木商店は米価の高騰に苦しむ民衆の反感を買い、同年8月12日、神戸駅近くの本社(旧ミカドホテル新館)に、約2万人の群衆が殺到し焼き打ちされている。
この事件を再調査した城山三郎は、当時の鈴木商店が米を買い占めていた事実はなく、焼き打ちは大阪朝日新聞が事実無根の捏造報道を行なって米騒動を煽ったことによる「風評被害」であり、鈴木商店と対立していた三井と朝日の「共同謀議」という仮説を立て、ノンフィクション小説『鼠 鈴木商店焼打ち事件』(文春文庫:1975年)として発表している。
*記事へのご意見はこちら
※記事へのご意見はこちら