<山口銀行前身、第百十銀行の沿革(14)~鈴木商店の破綻原因(5)>
第一次世界大戦後の反動不況の下で日本経済が抱えていた諸問題が複合して生じた金融恐慌であったが、より直接的原因としては、関東大震災の際に支払いを猶予された震災手形の処理をめぐる政党間の紛糾を契機としていた。
政府・日本銀行では、関東大震災時に一定の条件を付けて決済を控えた手形を震災手形に認定のうえ、特別な資金の融通と損失の補償を行なった。この震災手形は4億3,000万円以上と巨額なものであっただけに、猶予後速やかに決済を履行するのは容易なことではなかったと言われている。
このため、震災手形の支払猶予期間は再三にわたって延長され、1927(昭和2)年9月末が最終期限となっていた。しかし、日本経済はなお慢性的不況から脱することができなかったため、政府では同年1月、政府補償によって震災手形の整理を進めることとし、震災手形損失補償公債法案および震災手形善後処理法案を議会に提出。
1927年3月14日の衆議院予算委員会にて、9月30日が期日となる震災手形を10年間繰り延べる震災手形関係二法(震災手形善後処理法案、震災手形損失補償公債法案)が審議されていた。
審議の始まる直前、東京渡辺銀行は正午の資金繰りに困り果て、渡辺銀行の専務が大蔵省の事務次官に陳情する。本来は与党側の片岡大蔵大臣と野党側の田中義一が内々に合意していたこの法案も、新聞がその癒着を報じると一転して野党立憲政友会は与党憲政党を攻撃していた。
衆議院予算委員会で業績の悪い企業の名を明らかにするように求めた野党に対し、企業への信用不安を恐れた片岡直温(かたおかなおはる)大蔵大臣は、事務次官から差し入れられたメモを元に、「そんなことはできません。現に今日正午頃において東京渡辺銀行がとうとう破綻を致しました」と、国会で発言してしまった。
この時、渡辺銀行は資金繰りに成功して辛くも破綻を免れていたが、この片岡大蔵大臣の発言を受け依然危機的経営状況を脱していない渡辺銀行の首脳陣は、責任転嫁できるとばかりに翌日から休業することを決定。
これが金融恐慌の幕開けとなり、これを機に取り付け騒ぎが発生。連鎖的に中井銀行、左右田銀行、八十四銀行、中沢銀行、村井銀行が休業を余儀なくされ、日銀が非常貸出を実施することになった。一方、国会は、片岡大蔵大臣に対する問責決議案で紛糾し乱闘騒ぎにまで発展した。
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