<山口銀行前身、第百十銀行の沿革(18)~鈴木商店の破綻(8)>
帝國人造絹絲は、三原工場、松山工場などを竣工し西日本を中心に事業を拡大。しかし戦後に入ると同社の主力であったレーヨンの需要は瞬く間に低下し、代わって米・デュポン社からナイロンの製造技術を得た東洋レーヨン(現・東レ)の巻き返しに遭い、一時は倒産寸前にまで陥ることになる。
その窮状を救ったのは大屋晋三氏であった。大屋氏は1894年(明治27年)7月5日生まれで、群馬県出身。その7月に日清戦争が勃発(日清両国の宣戦布告は8月1日)しており、世はまさに戦時一色であり、波乱の生涯の幕開けであった。
東京高等商業学校(現一橋大学)卒業後、1918年(大正7年)鈴木商店に入社。1925年(大正14年)に帝国人造絹絲に派遣され、終戦の年の1945年(昭和20年)11月、久村清太の跡を受けて社長に就任。その後1947年(昭和22年)5月3日から9年間、大阪府選出の参議院議員(2期)として政界に身を置き、議員在職中は、第2次吉田内閣で商工大臣、大蔵大臣(臨時代理)に任命されている。
第3次吉田内閣では運輸大臣に横滑りしたが、第3次吉田第1次改造内閣誕生により大臣ポストから外れている。その後第4次吉田内閣の「バカヤロー解散」を経て、第5次吉田内閣が1953年(昭和28年)5月21日に発足したが、大屋の大臣登用の機会はなく、1956年6月3日(昭和31年)に議員を終えている。
政界を引退したその年に帝國人造絹絲の社長に復帰。1958年(昭和33年)に英・I C I 社からポリエステル(東レとの共同商標「テトロン」)製造の技術を導入。これが成功し、息を吹き返す原動力となり、帝人(1962年:帝國人造絹絲から改称)を東レと並ぶ世界的な合繊メーカーに育て上げるとともに、繊維業界のリーダーとして活躍。その功績により勲一等瑞宝章を受章している。
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