<山口銀行前身、第百十銀行の沿革(20)~鈴木商店の破綻(10)>
1927年(昭和2年)3月14日の衆議院予算委員会で、片岡直温大蔵大臣の「そんなことはできません。現に今日正午頃において東京渡辺銀行がとうとう破綻を致しました」と国会で発言したことが昭和の金融恐慌の幕開けとなり、鈴木商店の系列会社の帝國人造絹糸の岩国工場のある百十銀行や藝備銀行などの地方銀行にも取付騒ぎが飛び火することになる。
山口銀行史によれば、
(1927年)4月27日付の防長新聞は『銀行休業明後の各地金融機関何れも平静』との見出しのもとに、(山口)県下各地の金融機関が落ち着いたことを報じ、岩国地方の記事で、安田銀行(後の富士銀行)については、預金者は楽観しており、藝備銀行(後の広島銀行)については、帝人との関係で色々噂もあり不安視されていたが予想外に平静で、「預金者の銀行に對する理解の程度と同行の地方的信用を裏書きした」と評価しているのに比べ、預金引出者の声として、「百十(銀行)支店に至っては可成り取付の氣配は濃厚のように見受けられたのは矢張り本店の猛烈なる取付が免れないところであの際殊更に三菱銀行をかつぎ出しての張り紙に却って銀行自態の弱腰・弱點の裏面発表の感を生ぜしめ三菱云々の張り紙は少なくも内部の恐怖的心裡留保であり銀行自態に動揺の素因なしママ對策充分なれば敢えて他行の援助的聲明は却って不安の念を助長せしむる」と記事にしている。
5大銀行の安田銀行は別として、百十銀行と藝備銀行の両行本店は共に取付にあっているにもかかわらず、両行岩国支店に対する預金者の行動の差は何から出ているのであろうか。交通・通信手段が今日と比べものにならない当時としては、本店からの距離の差ではないかと考えられる。今日でも同様であるが、岩国の人々にとっては下関より広島の方に馴染みがあり、当然人と物の交流も多く、百十銀行より藝備銀行のことを良く知っていたのであろう。臨時休業明けの平穏な結果から見ると、この広告は無駄であったかもしれないが、緊急事態においては必要な措置であった。
現在も地方銀行の多くは都市銀行の系列に入っている。当時の百十銀行は三菱銀行と緊密な関係であったことが読み取れる。山口FGの大株主に、三菱系の明治生命(現明治安田生命保険相互)や東京海上(現東京海上日動火災保険)が名を連ねているのは、その名残りと言われている。
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