<山口銀行前身、第百十銀行の沿革(23)~鈴木商店の破綻(13)>
百十銀行の大口貸出先のトップは南洋興發、2位は林兼商店、3位に鈴木商店、4位に鈴木商店系の日本製粉が続いている。もし日本製粉が連鎖すれば、当期利益39万円の丁度3倍にあたる合計117万円の焦げ付きが発生することになるが、当時の日本製粉は独力で生きる技術と販路を持っていたとも言え、今も製粉業界大手の一角を占めている。
大口トップの南洋興發への貸出金額の記述はないが、第3位の鈴木商店が65万円強であり、第2位の林兼商店とともにそれ以上の貸出金であると推測される。もっとも南洋興發は国策の特殊会社であり、優良な貸出先だったのかもしれない。
ここで百十銀行の大口貸出先について触れてみたい。
・第1位 南洋興發(株)
1914年(大正3年)に勃発した第1次世界大戦でドイツ帝国は敗戦。
連合国であった日本は1922年(大正11年)、ヴェルサイユ条約によって赤道以北の旧ドイツ領ニューギニアの地域を国際連盟・委任統治領をとして統治することになる。
政府の要請を受けて、東洋拓殖(東拓法により大韓帝国政府と日韓民間資本が出資)は子会社「南洋興發」を設立し製糖事業に着手。その後、南洋興發は水産業・農園業・鉱業・油脂工業・交通運輸業・貿易業などに事業を拡大し、南洋における最大の企業となる。
最盛期には従業員・関係者は、5万人弱と満州に進出していた南満州鉄道(通称:満鉄)に匹敵する規模の会社と急成長を遂げ、「海の満鉄」とも呼ばれた。しかし太平洋戦争の激化に伴い、南洋諸島がアメリカ軍の占領下に置かれたため、事業は壊滅的な被害を受け、戦後はGHQにより閉鎖機関に指定され解散している。
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