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「人生」極める

第3回 今、棋士にできること~第1話「未来の日本が『考える国』であるために」(2)
「人生」極める
2011年12月 1日 07:00
社団法人 日本将棋連盟 大内延介九段

<勝負の価値を忘れた教育業界>
大内延介九段.jpg 大内九段のもとには、将棋の普及活動の一環として、日本将棋連盟からの将棋指導依頼が入る。これに応えて小中学校や高校に将棋を教えに行くが、家庭や学校における教育の緩み具合に驚きを覚えることが多いという。親が、授業参観でもないのに子どもの教育の場について来たり、自分が受験するわけでもないのに手続きに行く話を耳にする。自分のことは自分ですると、厳しく躾けるのが当たり前だった世代には信じられないことだ。

 「今の母親は家事に手間を取られなくなった分、子どもに手を掛け過ぎていますね。学校の先生も、子どもを叱る教育をしなくなりました」

 将棋で負かされるたびに悔し涙を流し、「次は勝つ」と、自分に言い聞かせながら、必死で駒を打ち続けた大内九段にとって、運動会などの勝負事に関して、勝ち負けの大切さを教えようとしないことは怠慢にすら思える。

 「子どもは大人が思うよりずっと無秩序な世界に生きていて、力の優劣に左右されています。小さな頃から、相手に負かされて涙するという経験を積んでおかないと、勝ち負けの価値が解からなくなりますよ。勝っても負けても、まったく一緒ということは絶対にありません。努力して強くなっても評価されないのであれば、努力し甲斐もないでしょう」

 ダメなものはダメと教える厳しさが、今の日本には欠けている。弱さを見過ごしてしまっては、国際的な市場で戦える人材を育てることもできないだろう。だからこそ、将棋の世界を教えることは火急の課題だと言っていい。厳しい実力社会であり、勝負の世界である将棋には、本当の教育ができる土壌があるようだ。

<敗北してこそ転機を得る>
 ここに厳しい勝敗の世界を語るにふさわしい大内九段の逸話がある。それは、将棋史上に刻まれる大激戦となった第34期名人戦だ。

 時は1975年。棋士の世界では最高峰と言われる名人位を巡って、大内延介八段(当時)が中原誠名人に挑んだ。大内八段は中盤まで中原名人を追い詰め、誰もが大内八段の勝利を信じて疑わなかった。マスコミも新しい名人の誕生を報道する準備で期待に胸をふくらませていたのがありありと解かった。その時、まさに「魔がさした」と言うべき悪手によって、大内八段は敗れたのであった。七番勝負は三勝四敗二引き分け。なんと九局行なわれ、まさに死闘であった。

 その時の大内八段の心境は如何ばかりか想像を絶するが、当人の思いとは無関係に、周囲は己の事情で遺憾の意を示した。その度に大内八段は、「神様は、それに相応しい人にしか名人を与えないのでしょう」と、淡々と答えたという。長い緊張の重圧にも負けず地道に駒を進め、ついに後一手と迫った名局を称え、名人を二人作るべきという声もあったが、将棋の世界には勝った負けたのふたつしかない。

shogi6.jpg 負けた者は敗者でしかない。努力すればするほど、負けたことによって受ける精神的な打撃は大きい。しかしその苦悩を乗り越えて潔く負けを認めると決断したことで、今、棋士として人生を極めた大内九段の姿がある。目の前で穏やかに『現在の自分』について語る大内九段と面していると、勝敗の価値を知ることと、勝敗によって人間性に優劣がつくわけではないと知ることの重要性をしっかりと感じる。

 しかし、今の教育の在り方は、この点を履き違えていないか。勝敗によって人間性に優劣がつくわけではないから、「勝った負けたは関係ない」と、解釈してはいないだろうか。負けたことに慄き、それでも自分を見失わず、どうふるまうべきかを考える。そこから考えに考え抜いて立ち上がれば、真に自分に与えられた使命を会得する大きな道が開ける。勝負の醍醐味はそこにあり、観衆や世間の目が介入する隙はないはずだ。負けたら可哀そうだからといって、戦う前に庇うのは、敗北者には価値がないと教えているのも同然なのではないのか。

(つづく)

【黒岩 理恵子】

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