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「北九州銀行」を誕生させた山口FGの歴史(28)
発信!北九州
2011年12月 6日 07:00

<山口銀行前身、第百十銀行の沿革(28)~銀行法の制定と県内銀行の合併(2)>

銀行法が成立した当時、山口県下には12の本店銀行があったが、法の施行により無資格銀行に該当するのは、個人銀行の萩野銀行と株式会社組織ではあるが資本金の不足する防長、萩、周東産業および鹿野銀行の5行であった。その他船城銀行も公称資本金は50万円、その払込済額は半額にも足らない24万円に過ぎなかったが、本店所在地の人口が1万人以下であったため無資格化を免れた。また、周防銀行は昭和3年4月当局より営業免許取消命令が発せられたが、すでに数年前から休業しており、本店建物も百十銀行の所有となり、その柳井支店になっていたような状況から、実質的には何の影響もなかった。鹿野銀行は既述のように同2年4月には休業し、翌3年8月1日には法第22条による新規取引の停止が命ぜられ、9月25日には解散決議を行い、10月22日大蔵大臣の認可を得て解散した。周東産業銀行は同3年5月1日華浦銀行に合併された。また、防長銀行および萩銀行の2行は、大阪の藤田銀行に吸収されるものとみられていたが、同3年11月百十銀行と合併した。また、萩野銀行は翌4年3月廃業したので、県内の本店銀行は猶予期間の昭和7年末を待たずに適法の6行のみとなった。この6行が昭和19年山口銀行として合併新立まで残ることになる。
(出典:山口銀行史)   注:文中の下線は筆者

藤田伝三郎.jpg この時点で山口県下にあった12行の銀行が6行となっており、半減することになる。
 残った6行が後に合併し山口銀行が誕生することになるが、合併までの過程においてはそれぞれの銀行の事情もあり、紆余曲折を経た上での合併劇となる。

 この文章のなかにある『防長銀行および萩銀行の2行は、大阪の藤田銀行に吸収されるものとみられていたが、(藤田銀行の経営破綻により)同3年11月百十銀行と合併した』となる。 ここに登場する藤田銀行は藤田財閥が1917年(大正6年)に創立した銀行である。

 藤田財閥の創立者の藤田伝三郎は明治期の関西財閥の重鎮で、長州・萩(現山口県萩市)の出身。明治維新の動乱期に奇兵隊員として活躍し、同郷の木戸孝充や井上馨、山県有朋らと親しく、民間人として初めて男爵の称号を得ている。そのため出身の山口県にも大きな影響力を持っていたと言われている。

(つづく)
【北山 譲】

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