福島第一原子力発電所の事故をきっかけに脱原発が声高に叫ばれるようになったが、それよりずっと以前から原発問題と向き合い、闘ってきた市民団体は少なくはない。そのひとつである佐賀県の「玄海原発プルサーマル裁判の会」で代表を務める石丸初美氏に、同会の結成からこれまでの活動について話を聞いた。
――「玄海原発プルサーマル裁判の会」が発足したのはいつになりますか。
石丸初美代表(以下、石丸) 裁判の会が発足したのは、東日本大震災が発生する約1年前の2010年2月21日になります。ただ、それ以前から脱原発に関する活動を行なってきました。そもそものきっかけは6年前にさかのぼります。06年の2月7日に古川康佐賀県知事から突然、プルサーマルの安全宣言が出されたのです。それで、佐賀の主婦を中心とした10名のメンバーがプルサーマルの勉強会を開いたのですが、そこに私も縁があって参加しました。原発の仕組みもよく理解できたし、何よりも、ここ佐賀で今まさにとんでもないことが行なわれようとしているのだと知り愕然としました。また、住民に対して何ら説明がなかったことにも驚きました。勉強会をきっかけに私も運動に参加することになりました。結局、私が裁判の原告団長になったのですが、皆市民の集まりで、この6年、家庭の事情などでやむをえない出入りがあり、裁判に参加することになったのは私を含めて数人だけになってしまいました。私自身も子どもが4人いて、当時はフルタイムで仕事もしていましたが、「この活動の灯を消してはいけない」という一心でなんとか今日までやってきました。
――運転差し止めを求める裁判を起こそうと活動を始めたのですか。
石丸 いいえ。まず、私たちは県民投票という方法を選びました。06年10月3日から12月3日までが、その期間だったのですが、当時は(福島の)原発事故以前ですから、なかなか理解を得ることができなかったし、それに県全体ですから、署名を集めるのに苦労しました。当時は、仕事が終わってから用意した事務所で処理をしていたのですが、経費もかかるし本当に辛かったです。そして、何とか県民投票まではがんばってみましたが、いよいよ仕事との両立に限界がきて、「仕事と命どちらが大事か」という二択の結果、県民投票後に退職することにしました。子どもが大きくなり、お金があまりかからなくなっていたのだけが救いでした。こうして、県民投票の間、主人と二人で退社してから事務所へ直行しました。普通の署名などと違って、生年月日や印鑑が必要だし、体が不自由で署名が困難な人のために代理人を立てたり、記入後に住所が変更になった場合は無効になるなど、手かせ足かせばかりでした。しかし、それでもなんとか5万3,191筆(有効は4万9,609筆)を集めることができました。しかし、07年1月30日から2月2日の臨時県議会で、あっけなく否決されてしまいました。当時は、原発やプルサーマルをゼロから説明しないといけなかったし、説明をしても「使用済み核燃料を再利用するならリサイクルで良いことじゃないか」などという声が返ってくるような時代でした。毎日深夜まで仕事をして、ようやく提出しましたが、古川知事は県民投票に対して余裕の構えでした。臨時県議会で否決する自信があったのでしょうね。
| (中) ≫
▼関連リンク
・玄海原発プルサーマル裁判の会
*記事へのご意見はこちら
※記事へのご意見はこちら