<10年のズレ>
NET-IBで元福岡玉屋社長・田中丸善司氏への追悼文を書いた。通夜でお別れをした翌日の弊社での朝礼のことである。社員の顔を見渡しながらふと下記のように閃いた。「若手の社員たちは玉屋百貨店のことを知らないのではないか?」と。昨年入社した新卒の社員(田中)に質問をしてみた。
「田中君、知っているだろうが、玉屋はどういう会社ですかね?」と尋ねてみた。田中君は質問の意味がよくわからない。「社長はなにか魂胆があって意地悪なことを企んでいるのな」という顔をしている。
「さー、答えてください」と催促をしたら渋々と「パチンコの玉屋さんでしょう」と回答をしてきた。案の定の答えだ。この田中君は23歳である。自衛官をしていた30歳の美子さんに話題を振りかえた。「美子さん!!ゲイツのあるところには昔は何がありましたかね」と投げかけてみた。「はい、百貨店がありました。福岡玉屋です」。「ピンポン!!正解です」と、砕けたお褒めをあげてやった。田中君はキョトーンとしている。
「ハーイ!!いまのゲイツビルができる10年前、そこには百貨店がありました。美子さんが名回答した『福岡玉屋』です。福岡の名門でした」と補足した。23歳の田中君は福岡生まれて育ってきた。彼ですら玉屋は忘却の彼方にある。30歳の美子さんは当然の如く福岡玉屋を認識していた。田中君と美子さんの年齢の差は7歳。わずか7歳という年齢差で地元に関する情報の格差にギャップがある。美子さんは会社の業務日誌に「ジェレネーション・ギャップ」と書いた。
<岩田屋も同様の存在>
田中君の話で脚光を浴びるのはパチンコの玉屋さんである。時代の趨勢は如何ともし難い。話は続く。弊社のあるリーダーが予言する。「あと3年もすると岩田屋も同じ運命を辿るのではないか。若い連中には地元に岩田屋という百貨店があったということ知らなくなるだろう」と喝破した。たしかに間違いなく数年で『福岡の名門・岩田屋』の存在を知る若者はいなくなるだろう。伊勢丹の経営陣は地元対策として『岩田屋』の名前を残すだろうが。
若者の脳裏には「伊勢丹か三越の別部門の名称が岩田屋」という程度のものは残るはずだ。「福岡玉屋は『博多・中洲という地の利の悪さ』で百貨店戦争に負けた」と、解説した。しかし、「天神という圧倒的な優位に立っていた岩田屋も潰れた」という冷然たる事実も横たわっている。"地の利云々"という矮小な原因ではなかった。百貨店という業態が小売業界のなかで淘汰される岐路に立たされていたのである。2社の経営陣は自力で時代に対応できずに潰れたのであった。平成の初頭においては『岩田屋vs福岡玉屋』のライバル関係を『地の利』だけでしか論じられなかった。だが今となってみれば「百貨店の業態のチェンジに乗り遅れた地元百貨店2社」と結論づけられる。
百貨店の業態が全国津々浦々、広がったのは1935年(昭和10年)である。77年の歴史の過程を同様のスタイルで生き残れるほどビジネスは甘くない。どうであれ博多・福岡の名門企業であった『岩田屋と玉屋』は遅かれ早かれ人々の記憶のなかから忘却の彼方に追いやられるに違いない。
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