読売新聞記者の取材メモ誤送信と、それに続く誤報は、権力監視の役割の自覚が希薄になったマスメディア、報道機関、ジャーナリズムだけでなく、筆者を含めた世の取材記者すべてへの警鐘である。
読売新聞記者が7月20日、福岡県警警部補の贈収賄事件に関して県警監察官とみられる捜査関係者から取材したメモを、誤って司法記者会加盟報道13社の記者にメール送信し、取材源と取材内容を流出させた。その後、取材メモの内容とは関係はないものの、同紙は一連報道のなかで、「工藤会側に県警内部文書」(7月22日付朝刊。一部地域は23日付)とする"スクープ"記事を1面トップで掲載したが、これはが事実ではない誤報だったことがわかった。福岡の調査報道サイト「HUNTER」の報道(8月1日付)から明らかになった。同サイトが報じなければ、取材メモの誤送信が明らかにならなかった可能性は高い。
読売新聞西部本社は8月14日付朝刊で、検証記事とともに、記者の論旨退職、編集局長の更迭などの処分を決めたことを公表した。
「読売新聞は死んだ」。私は、そう思った。
取材内容の漏えいという点で、1996年当時NEWS23キャスターだった筑紫哲也氏が「TBSは死んだ」とコメントした事件を思い出したからだ。TBSが89年に未放映の坂本弁護士インタビュービデオテープをオウム幹部に見せていながら、95年の発覚後もそんな事実はないと否定した事件である。
証言を聞き出し、裏付けを取るという取材の基本動作の結晶が取材ノートや取材メモだ。その取材メモを流出させたうえ、ニュースソースを秘匿できない者にこの仕事を続ける資格はない。取材メモは、取材記者にとって命と同じくらい大事なものではなかったか。何を問題意識に思って、どれだけ本質に迫る取材をしたのか。"事実"にこだわることをどれだけ貫いているのか――。これが、警鐘の1つだ。
もう1つの警鐘は、巨大情報産業の組織に身を置くなかで、発表より半日や1日早く抜くだけのスクープを追うのに個々の取材記者までもが侵食され、民衆の生活のなかから発見する社会のゆがみや不正義を拾い出す力を失っていないのかという問いだ。
マスメディアは第4の権力になぞらえられることがある。当局に「食い込める」のは、取材記者の"特権"だ。「記者クラブ」に属して、当局にアクセスするライセンスを持っている。アクセス権を持ち、官僚とつながりをつくっている(あるいは、つくっていた)からこそ、裏を探ることができる。
それだけに、アクセスして何をやるのかが問われている。
事件報道は、取材する側の問題意識から掘り出すというより、ニュースのほうから取材・報道を迫ってくる。ほとんどすべての情報は捜査機関が持っている。しかも、事件として立件されなければ、取材も終わってしまう。捜査機関が立件できなかった事件が報道されたら、捜査機関のメンツは丸つぶれだ。そんな記事を書けば、捜査関係者から通常の「事件ネタ」が入らなくなり、たとえば強制捜査などを他紙が書いているのに自社だけ抜かれる羽目になる。だから、潰れた事件は書かない、書けない。事件報道は、ジャーナリズムにとって、そういう危うさを内包している。
立件されれば書くし、立件されなければ書かないのか。そうではないだろう。リクルート報道は、潰れた事件から始まった。
誰に向かって書くのか。読者のために書くべきニュースを、当局の都合と報道機関の論理で"ネグる"のでなく、断固として書く勇気を持ち続けないと、どんなに食い込んでいても、実は警察・検察の"広報係"として踊らされていたということになりかねない。
これは、発表前に書くかどうか、他紙より半日早く書くかどうかを超えて、ジャーナリズムとして、極めて本質的な問題だ。
取材記者がみずから問題意識を持って、権力を監視したり、社会正義を追究する役割を果たさないなら、単なるサラリーマンに過ぎない。
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