<問われる寿命の質>
高齢化が加速する現代、寿命の質が問われている。そのなかでも、いかに健やかに生きるか、ということへの関心は、年齢が高まるにつれて増加しているようだ。お年寄りが集う場所に足を運べば、昔は政治社会の話題に花を咲かせる姿が見られたが、今では「健康」の話で盛り上がっている。頭脳を鍛えることに努めることから、身体を労わったり鍛えたりする方へと関心が変化していっているということなのだろうか。
「老いてなお、若々しく在る」というのは、現代の日本人に共通のテーマのひとつだろう。社会的に活躍する高齢者のほとんどが、「老いを、第二の人生として、心新たに生きる」ことを勧めている。このような現状下において、106歳を超えてなお、矍鑠(かんしゃく)として世界一周の旅を実践し、「 公共交通機関を利用して世界一周をした最高齢者」としてギネスに認定された福岡教育大学名誉教授の昇地三郎氏は、まさに時代を象徴する"傑物"だ。氏もまた「私の青春が始まったのは、95歳から」と述べている。
<自分を信じることを教えてくれた母>
昇地三郎氏といえば、「ベストセラー本や映画にもなった『しいのみ学園』の創始者」として知られているが、なかには「100歳を超えてなお鮮やかな服を身にまとい世界中を飛び回る元気な大学名誉教授」という印象のみを持っている方もおられるだろう。そのような方々のためにも、ここで昇地三郎氏の経歴を振り返って記してみたい。
昇地三郎氏は1906年8月16日、北海道に生まれた。
長生きをしている人が、必ずしも幼少期から健康であるとは限らない。昇地氏も生後半年の頃に飲んだ牛乳で中毒を起こし、15歳で広島髙等師範学校に入るまでは超虚弱児として、目立たない時期を過ごしたという。
兄弟姉妹が8人いたが、優秀な兄弟に挟まれて、肩身の狭い思いをすることも多かった。しかし、母は決して三郎少年を他の兄弟と比較して劣等感を与えるようなことはなかった。それどころか、常に「三郎は、やり手だからね」と、他の兄弟にはない面を見つけてほめてくれたという。何をもってやり手というのかはよくわからなかったらしいが、三郎少年は、自分は"やり手"という長所があるのだ、と自信を持って生きることができたそうだ。
昇地氏は、「ここに教育の本質があった」と当時を振り返る。もし自己否定のイメージを植えつけられるような言葉を掛けられていたとしたら、今の自分はいなかっただろうと。
母の言葉と態度に支えられて、三郎少年は、前向きに生きることという、人生に対する基本姿勢を学んだ。
<人間としての心の美しさを尊ぶ教育を>
しかし、そんな前向きの心を持っていても、心折れるときもある。それは、虚弱体質が原因で軍人の道を閉ざされてしまったときだ。失意の我が身に追い討ちを掛けるように、父から「お前は軍人になれん。一生子どもと暮らすか」と言われた。だが、ここで前向きな考え方が役に立ち、解決の糸口を得た。父に掛けられたもうひとつの「学校の先生は良いぞ」という言葉を思い出したのだ。"一生子どもと暮らすか"という言い回しは"教育者"という意味があったのかもしれない。ともあれ三郎少年は教師を目指すと奮起し、広島髙等師範学校に入学。親元を離れ、寮に入り、同年代の仲間たちと、文武両道の教師になるべく、懸命に教師として自分を磨き上げた。幼年期に教育の本質を学んだ昇地氏は、この広島髙等師範学校が教育者としての原点となった、と語っている。
昇地氏には「障害(劣等感)重積進化過程」という著書がある。この書名を見ただけで、氏が"劣等感"が、いかに人の成長に障る害であると考えているかがうかがえる。また氏は、師範学校の弁論部で、人間としての心の美しさを尊ぶ教育の重要性を論じた。
このような、教育に対する信念があったことが、その後の「しいのみ学園」の創設を始めとする、さまざまな氏のエネルギーの源になっていったように思える。
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