<激動の11月>
11月に入り、事態は、めまぐるしく動いた。14日、民主党・野田佳彦首相が安倍晋三自民党総裁との党首討論において衆議院解散を表明。16日、衆議院が解散。12月16日に衆議院選挙が行なわれることが決まった。民主党、自民党の2大政党に対抗しうる勢力を形成しようという動きが活発化。新局面を迎えた。
12月17日、飯田哲也氏がブレーンとして支えてきた「日本維新の会」の橋下徹大阪市長が、東京都知事を辞任した石原慎太郎氏の率いる「太陽の党」と組み、事実上、脱原発推進の旗を下ろした。
この時点では、飯田氏は「国政は考えていません」と表明していた。
しかし、選挙を見据え、水面下から動かした。盟友でもあった滋賀県知事の嘉田由紀子氏と、「脱原発を実現したいと思っている有権者が投票する政党が必要だよね。選択肢を作ろう」と議論を交わした。脱原発と増税反対を2本柱にしていた「国民の生活が第一」の小沢一郎代表を加え、脱原発を掲げる政党で手を組み、集約する「オリーブの木構想」が現実的に動き始めた。
公示1週間前、11月27日、日本未来の党を結党。飯田氏は、代表代行の座に就任した。しかし、まだこの時点になっても、飯田氏の頭の中には、自ら国政の選挙に立候補するというプランはなかった。
結党後すぐ、小沢一郎氏の率いる「国民の生活が第一」が合流。剛腕と呼ばれる政治家を味方に付け、大所帯になった。飯田氏は一躍、第3極、日本未来の党の立役者として脚光を浴びた。
日本未来の党が掲げた「卒原発」。エネルギー政策にかけては一日の長のある飯田氏が、ロードマップを作り、それを、小沢一郎氏ら政治実務に長けた、キャリアのある政治家が実現していく形を描いていた。
日本未来の党から出馬していたある候補者は、「卒原発のロードマップは、飯田さんが作られた。学者としての経験もお持ちなので、本当に緻密に、現実的に作られている」と、そのリアリズムを評価していた。しかし、政策を厳密にすり合わせるだけの時間は十分ではなかった。
12月2日、衆議院選挙公示2日前になって、山口1区から出馬することを表明した。「私が小選挙区で戦うというのは、党の代表代行として、未来の党の象徴のようなところもあって、立たざるをえなかった」。
山口1区では、自民党・高村正彦副総裁が強固な地盤を築いている。10回連続で勝っている。厚い壁だ。盤石の高村陣営に対し、飯田陣営は公示後の6日に選挙カーが出そろうという急ごしらえ。「どぶ板に近い選挙活動になった」。地道に、選挙区を回った。周南市の商店街では、選挙権のない地元の若者たちにも手を振り、声を掛け、握手を交わした。2年後、3年後、4年後に生きてくるかもしれない。
「ようやく終盤になって手ごたえをつかんだ。ただ、時間が足りなかった...」。12日間の選挙戦を終えて、飯田氏は、しかし、すがすがしい表情を見せていた。
※記事へのご意見はこちら