2024年11月24日( 日 )

不戦と平和への祈りを込めた、ビルマ慰霊の旅を続ける(前)

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(株)小笠原

 2015年8月15日は、第二次世界大戦の終戦からちょうど70年目。現在、我が国では集団的自衛権の行使の限定容認などの安全保障関連法案をめぐり、政治が揺れているが、その議論については他方に任せたい。そのようななかで、フリーユニットバスのメーカー(株)小笠原の重松繁利会長と小笠原正行社長は、先代の故・小笠原平吾氏(07年、85歳で逝去)のご遺志を継ぎ、毎年1月下旬に平吾氏夫人の百代氏と親族・関係者とともに、ビルマ(現・ミャンマー)へ慰霊の旅を行っている。ビルマ戦線に参加し、一命を取り留め1946年に日本に戻った平吾氏が、亡き戦友への慰霊と不戦と平和の祈りを込めた、ライフワークであった。
 戦後70年、平吾氏のビルマ慰霊の旅を通じて「不戦と平和の祈り」を伝える活動とは――。

生き地獄の日々

 (株)小笠原の先代会長の小笠原平吾氏は、1943(昭和18)年10月に、旧日本陸軍の菊五十六連隊の一員として、ビルマ戦線に参加。当時、同戦線では連合国との激戦により、約2,000人を超える兵士が命を落とした。生前、平吾氏は『ビルマ戦線 死の敵中突破』と題する手記を残している(現在は、平和記念展示資料館にて保管されている)その手記のなかで、当時の様子が生々しく綴られている。

 「一口に、九死に一生という言葉があるが、私の場合は九分九厘死んでいた。よくぞ生きて故国にかえられたものだと、自分自身、運の強さに驚いている。(中略)十九年六月五日、フーコン地区ナンヤセイク三叉路で、中川隊(第五中隊)が敵の激しい攻撃を受けた時のことである。吉村伍長(佐世保市在住)と突撃寸前の時、左半身十三箇所に銃弾を受け、全身に火がついたような激痛のあと、出血多量で意識が朦朧となり、人事不省に陥った。(中略)一緒にいた吉村伍長の姿は見えず、うつろな目に入ってきたのは、トンプソン銃を肩から下げた英軍の歩哨である。私はこの時、軍服の左半分は銃弾で吹きちぎられ裸同然であった。英軍の歩哨は私を戦死者と思ったのか、何も手を加えなかった。英軍の歩哨を見たとき、俺はまだ生きているのだなあと思い、これから先どうしようかとぼんやり考え込み、息を殺して英軍の歩哨が立ち去るのをじっと待っていた」(手記)と、当時の様子が明瞭に、そして赤裸々な心境が綴られている。

当時の地図 当時の地図

 その後、平吾氏は自決を覚悟したものの、「こんな所で犬死してたまるものかと言い聞かせ」(手記)、交戦の続くなか、昼間はジャングルに身を隠して息を潜め、夜になってから竹を杖代わりに30~50m進んでは休んでを、繰り返したという。当然、食べ物はなく、平吾氏の首から下げた信管のなかに戦友の遺骨と一緒入れていた岩塩を、少しずつ大切に口にした。水もないため辺りの泥水を飲み、その影響でアメーバ赤痢にかかってデング熱に冒され、傷口には蛆虫が湧くなど、身体の状態は極限に近づきながらも、気力のみで平吾氏は1人敵陣のなかでの撤退を続けた。

 その路傍には、栄養失調で行き倒れた戦友たちが群れをなし、腰を下ろしたまま息絶えた者、辛うじて息をしている者、身動きできない戦友たちは、敵の捕虜になることより自決を選び、三人五人と円座して手榴弾で自決する光景を目の前で見た。マラリアの高熱に冒され狂気となって妻子の名前を叫んでいる戦友、「水をくれ、水を飲ませてくれ!」と声を振り絞って叫ぶ戦友──平吾氏が撤退を続ける道中では、数百人の死体が延々と続き、「全くの生き地獄とはこのことかと思わされた」(手記)。平吾氏自身も、飲まず食わずのなかで疫病と戦い、傷の手当もできず蛆虫を湧かせながらも、気力だけで敵中を突破し、奇跡的に部隊にたどり着き生還したのだった。いったい何日を要したかなどは、覚えていないという。

(つづく)
【河原 清明】

ビルマ慰霊の旅へ

 (株)小笠原では毎年1月下旬に、平吾氏のご遺志を引き継ぎ、ビルマ(ミャンマー)慰霊の旅を行っております。近年、高齢化により参加者が減少傾向にあります。不戦と平和を後世に語り継いでいくために、ぜひとも皆さまのご参加をお待ちしております。
お問い合わせ先
TEL:092-431-2751
(株)小笠原(担当:重松・小笠原)

 
(後)

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