2024年11月24日( 日 )

安保法案に問う~手記『不戦の誓い』(1)

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(株)小笠原創業者小笠原平吾氏の手記より

 わが国世論は、安全保障関連法案を巡って合憲、違憲を巡り議論が過熱化している。この議論は法案採決の如何を問わず続くと思われる。その渦中にあってある手記を紹介したい。フリーユニットバスのわが国トップクラスのメーカーである(株)小笠原(本社:福岡市博多区、重松繁利会長、小笠原正行社長)の創業者である、故小笠原平吾氏は大東亜戦争のビルマ戦線において旧日本陸軍に従軍し、連合国軍との激戦を経験された。その当時の生々しい手記、『ビルマ戦線 死の敵中突破』を同社の重松会長・小笠原社長からお借りした。平吾氏が記した文章を紹介し、その手記を通して、今改めて『不戦の誓い』について考えたい。

(以下 平吾氏手記『ビルマ戦線 死の敵中突破』より)


ああ惨たり筑紫峠(通称 白骨峠)

第五中隊 小笠原 平吾

 一口に、九死に一生という言葉があるが。私の場合は九分九厘死んでいた。よくぞ生きて故国に帰られたものだと、自分自身、運の強さに驚いている。
 私は、昭和十八年四月、久留米第四十八聯隊留守隊に入隊、第一期の検閲を終え、七月末に門司港を出航、十月にビルマのラングーンに上陸し、ビルマ戦線に参加した。
 十九年六月五日、フーコン地区ナンヤセイク三叉路で、中川隊(第五中隊)が敵の激しい攻撃を受けた時のことである。吉村伍長(佐世保市在住)と突撃寸前の時、左半身十三箇所に銃弾をうけ、全身に火がついたような激痛のあと、出血多量で意識が朦朧となり、人事不省に陥った。それから何時間たっただろうか。気がつくとあたりは真っ暗闇であった。
 一緒にいた吉村伍長の姿は見えず、うつろな目に入ってきたのは、トンプソン銃を肩から下げた英軍の歩哨である。私は、この時、軍服の左半分は銃弾で吹きちぎられ裸同然であった。英軍の歩哨は私を戦死者と思ったのか、何も手を加えなかった。英軍の歩哨を見たとき、俺はまだ生きているのだなあと思い、これから先どうしようとぼんやり考え込み、息を殺して英軍の歩哨が立ち去るのをじっと待っていた。(以上 原文まま)


 平吾氏は、何と銃弾を十三発も身体に受けたにも関わらず、生きていたのである。同じような場面においては、ほとんど死亡しているはずだ。平吾氏の生命力なのか、銃弾を受けた箇所が致命的な箇所から偶然外れたのか…とにかく生きていたのであった。その様が、当時の敵軍の兵士が戦死者と判断したことは、平吾氏が本当に屍と同じような光景に見えたのであろう。よって、いつ死んでもおかしくなかった状態であったことは、想像できる。同社の重松会長によると「生前平吾会長は、“俺は一度死んだ身だ。それが生きて帰ってきた。生かされたのだ”と回想されていた」とその後の平吾氏の生き方に反映されていくこととなる。

(つづく)
【河原 清明】

 
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