安保法案に問う~手記『不戦の誓い』(3)
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(株)小笠原創業者小笠原平吾氏の手記より
路傍には私と同様に、栄養失調で行き倒れの戦友達が群をなし、腰を泥沼の中に下ろしたまま息絶えた者、死にぎわの魚のようにアクアクと、思い出したように息だけついている者、然も所持品はなくなっていた。
猿又からは、夏みかんのように大きく腫れ上がった睾丸を露出し、歩けずに四つんばいになっている戦友、又、駄馬の両側に重傷患者をしばりつけて往くのを見て、俺も一緒に乗せてくれと叫ぶ者、目の前にいながら何もしてやれない無力さは、たまらなく悲しい思いであった。
疲れ切った身体に鞭打ち、竹の杖を頼りにして十数日程さまよい続けた。やっとのことでカマインの渡河点まで辿りついたところ、後方にいた筈の敵兵が早廻りして対岸に陣取っていたのにはがっかりした。(以上 平吾氏手記『ビルマ戦線 死の敵中突破』原文まま)
平吾氏が、死力を尽くして敵中を撤退する道中の様子が、赤裸々に綴られている。多数の戦友が道端で倒れて、生死の境をさまよう者。重傷を負い自力で動けない者。助けを必死に求めている者など…その当時の様子は、想像でしか記すことができないが、まさに“生き地獄”であったことは想像に難しくない。戦友を一人でも多く助けたいという意志があっても、ご自身の身体が瀕死の状態で、自分が撤退することだけでも困難であったので、助けることはできなかった。その平吾氏の無念さが、この文面・文脈から伝わってくる。「助けてくれ!」と目の前で嘆願されながら、何もできずにただ詫びながら通り過ぎてしまうという、悲しさ、虚しさそして無力さを感じるのは、身体の痛みと同様に、平吾氏の心に大きなダメージを与えたことであろう。このような状況のもとで、平吾氏自身は「何ができるのであろうか」と最後の最後まで苦悩するなか、どうすることもできなかった。自分の命が危険ななか、他人の命のことを最後まで心配する平吾氏の生き方─現代社会に生きるわれわれは、そのような場面に遭遇してしまうとどのようになるであろう。筆者も含め、他人の命のことなど考えもせず、自分の命を最優先することであろう。良い悪いでもなく、自分の命を最優先することが普通なのかもしれない。
後述するが、この体験が生還し帰国後の平吾氏の人生に大きな影響をもたらしたことは、ビルマ慰霊の旅、事業への取り組みで理解できる。
心も身体も瀕死の状態─それでも力を振り絞り、十数日間かけて平吾氏は、渡河の地点に着けたが、またしても死の境となる困難が待っていた。
(つづく)
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