14資産への固執―長崎の教会群が進む道とは(前)
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長崎県は世界遺産登録を目指している「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」の構成資を現状の14のままで維持すると決めた。国際記念物遺跡会議(イコモス)から価値の証明が不十分であると指摘されたにも関わらず、長崎県はあくまでも現在の資産にこだわる道を選んだ。手直しされた推薦書が今月中にも国へと提出される。推薦取り下げは前例がなく、2018年に再推薦される保証は全くない。2007年に国のリスト入りして約10年、長崎の教会群は最大の試練を迎えている。
甘すぎた見通し
長崎県の誤算はイコモスが「禁教期」を重視したことだった。潜伏キリシタンの集落に建てられた明治時代以降の教会で十分価値を証明できると踏んでいたのだが、甘い見通しだったといわざるを得ない。カトリックでは1865年の信徒発見を東洋の奇跡と呼んでいる。奇跡はキリスト教の根幹を為す重要な思想だ。日本二十六聖人殉教地が構成資産に入っていれば話は違っていたかもしれない。1597年に豊臣秀吉の命で処刑された26人の信者は早くから知られており、1862年にはアジア人で初めて信者の最高位である聖人に列せられた。信徒発見の舞台となった大浦天主堂も正式名称は日本二十六聖殉教者堂である。教会群が2007年に国の推薦リスト入りした時点では日本二十六聖人殉教地も構成資産の1つだったが、後の見直しで外され、今回の14資産の中にも入っていない。
長崎におけるカトリックの歴史をざっと振り返ってみよう。まず1550年に平戸でイエズス会宣教師ザビエルが布教したことに始まる。平戸から追い出された宣教師を大村純忠が受け入れ、1571年には長崎を開港し、領地の浦上をイエズス会に寄進した。純忠と親族関係にあった有馬晴信も入信し、自分の領地にカトリックを広めていく。しかし豊臣、徳川と歴代の政権はカトリックの信仰を禁じ、信徒らを弾圧する。島原の乱は信者による最後の大規模な抵抗という側面を持つ内戦だった。禁教令の下でキリシタンは山間部や島などに潜み、信仰を続けていたが、1873年に明治政府がキリスト教を解禁すると、一斉に教会を建て始める。14の構成資産はこの歴史を説明できるものでなければならない。イコモスは資産の価値自体は認めている。しかし近年、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界遺産委員会が推薦書のコンセプトを重視する傾向にあるというのは周知の事実。当然イコモスもその方針で審査に臨んでくるはずだと想定しておかなければならなかった。
布教、弾圧、復活の意義
長崎県の担当者がよく口にしていたのは「ユネスコはキリスト教圏にあるから」という自信だった。ローマ法王が長崎を訪れたこともある。カトリック長崎大司教区を通じてバチカンに働きかけ、支援も取り付けた。態勢は万全。しかし、そこに読みの甘さがあった。日本におけるキリスト教の布教、弾圧、復活という歴史の流れは、新約聖書の福音書が記すキリストの生涯にも重なって見える。カトリック長崎大司教区も当然理解していたはず。長崎県を支援しながらアドバイスしなかったのか、それともあまりにも当たり前すぎて、気づかなかったのか……。いずれにせよ、イコモスが禁教期を重視するのは容易に予想できたはず。確かに明治期以降の教会に、かつての潜伏キリシタンが貧しい生活の中から資金を集め、自らの手で建設したという事実は存在する。しかしそれが示しているのはあくまでも信仰の自由を得られた喜びであって、厳しい弾圧に耐えながら信仰を守り続けた生活ではない。イコモスが禁教期を十分に説明できていないと指摘したのは、むしろ当然といえよう。
【平古場 豪】
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