ヤングファッションからファッションビルへ~マルイの業態転換(前)
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マルイが福岡にやって来る。日本郵便(株)が博多郵便局跡地に建てた商業ビル「KITTE(キッテ)博多」が4月21日にオープンする。地上11階地下3階建てビルの核テナントは、1~7階の「博多マルイ」。(株)丸井グループで九州初出店となる。同グループの最大の特徴は、創業家である青井家の親子3代が、それぞれ業態を転換してきたこと。今では「ヤングファッションのマルイ」ではなく「ファッションビルのマルイ」なのだ。
月賦販売からカード事業に転換
流通小売業界のなかで異彩を放っているのが(株)丸井グループ(以下、丸井G)である。カードと小売の2本柱だ。持ち株会社の丸井Gの傘下に、小売事業の(株)丸井とカード事業の(株)エポスカードを持つ。
丸井Gの創業者は、青井忠治氏。1908年3月、富山県生まれ。18歳で上京、新宿の月賦販売業の丸二商会に就職。10年後に暖簾分けの形で独立。31年に東京・中野に店を構え、35年に屋号を丸井に改めた。丸二商会の「丸」と青井の「井」を組み合わせた。37年に(株)丸井を設立して、現在に至っている。
当時の月賦販売業界は、月賦販売の発祥の地・愛媛県出身者がほとんどだった。東京で荒稼ぎして、故郷に帰るつもりだったので、売れるものは何で売るという荒っぽい商売をしていた。忠治氏は、息の長い商売を続けていくためには、顧客の信用が第一と考えた。扱い品を一流メーカーのものに絞り込んだ。
戦後、家具の販売から営業を再開。最初は5カ月払いだったが、10カ月払いに変更。これがヒットし「10カ月払い」が丸井の代名詞になった。
この頃は、月賦=ゲップの連想から「ラムネ屋」と呼ばれ、小売業の本道からは遠かった。スプリングボードになったのは1960年。丸井は日本で初めてクレジットカード「赤いカード」を発売した。月賦販売からクレジットという明るい響きの会社へと脱皮して、社会的に認知された。63年に東証二部に上場(65年に東証一部へ指定替え)。60年はクレジット元年と言われている。丸井Gのビジネスの原点は、カード事業にある。
「赤いカード」とヤングファッションに転換
「赤いカード」を発展させたのが、2代目の青井忠雄氏。33年3月東京生まれ。55年に早稲田大学商学部を卒業、丸井(現・丸井グループ)に入社。「赤いカード」を発行した60年に副社長に就任。72年に忠治氏の後を継いで、社長に就いた。2005年に息子にバトンタッチするまで、33年にわたってクレジット業界をリードしてきた。
クレジット先進国の米国では、チェーンストアーや百貨店などの大型小売業の成長とクレジット販売は、密着するかたちで発展してきた。しかし、日本では小売業のクレジット普及は遅れていた。
忠雄氏は「月賦」をクレジットと言い換えて、イメージチェンジを図り、成功を勝ち取った。「駅のソバ」や「世界の一級品」キャンペーンで、企業イメージの向上に努めた。
忠雄氏は、商売を永続させていくには、「時代に合わせて、(企業は)変わらねばならない」という忠治氏の遺訓を守った。どうしてもダサイというイメージがつきまとう月賦屋の店舗を、学生や若い女性が入りやすいファッショナブルな店に変身させた。
「赤いカード」は若い男女の必携品となり、丸井はヤングに支持される店となった。「ヤングファッションのマルイ」にビジネスモデルを転換した。(つづく)
【森村 和男】
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