城ガールが巡る日本の名城~真田氏の居城・上田城(6・後)
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戦国の武将・真田幸村(信繁)。赤い甲冑に六連銭の旗、その武勇から「日本一の兵(つわもの)」と称された。「真田」といえば大阪の陣での活躍に目が行くが、そのルーツは信濃(信州)にある。
信濃・上田城(長野県上田市)は、幸村の父・真田昌幸が築き、徳川の大軍を二度も退けた難攻不落の名城だ。
今回は“信州のお城レポート”第二弾として、上田城編をお届けする。徳川を退けた上田合戦
1585(天正13)年に起こった真田と徳川との戦いは、第一次上田合戦(別名・神川合戦)と呼ばれている。徳川の兵約7,000に対して、迎え撃つ真田の兵は2,000。戦力差が大きく、劣勢だったはずのこの合戦で真田は圧倒的な勝利を収める。
この戦いの中心は上田城の東に位置する神川だったので、上田城の出番は少ない。南櫓で出会ったガイドのおじさんが、「最初の戦いのときは上田城はまだ未完成だったから、籠城するのはちょっと難しかったかなー」と話してくれた。
徳川軍が進軍したと伝えられる道は、現在広い歩道を備えた大きな道路に変わっている。古地図で見た細道とは異なるが、今なお城に続く重要な道として利用されている。1600(慶長5)年。真田と徳川は上田の地で再び争うことになる。関ヶ原の戦いの前に起こったこの合戦で、兄・伸幸は徳川(東軍)に、父・昌幸と幸村は豊臣(西軍)にそれぞれ味方する。上田城を攻める徳川の兵約38,000人対して、真田の兵は十分の一にも満たない3,000人。またしても圧倒的な戦力差のなかで、真田は奇跡的な勝利を得る。しかし、昌幸と幸村が味方した西軍が関ヶ原の戦いで敗れたことにより、2人は九度山へ流されることに。城主を失った上田城は破却処分。お堀は埋められ、櫓などの建物は壊されてしまった。
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再建され、現代に残る姿
現在の上田城は、一度破却されたとは思えないほど、“お城”としての姿をとどめている。
信之の後に、上田藩初代藩主となった仙石忠政は、上田城の再建に取り組んだ。忠政は7棟の櫓を建て、石垣を築き、埋められてしまったお堀を掘り返すなど大規模な再建工事を行った。しかし着手から2年後に忠政が死去。上田城の再建は未完成のまま終わってしまった。
その後も仙石氏と、1706(宝永3)年から上田に入った松平家によって、度々上田城の整備・修復が行われた。どれも大規模な工事ではなかったが、一度お城としての姿を失った上田城にとってはどれも重要なものだった。しかし、上田城も廃藩置県によって廃城となり、西櫓を除いた全ての櫓が解体・売却されてしまう。売却された櫓のうち2棟は遊郭として使用された。その後、東京の料亭に売却・移築されるところを、上田市民らの手によって買い戻され元の位置に戻された。この櫓が、東虎口櫓門の左右に建つ南櫓と北櫓だ。櫓の内部には遊郭として使われていた時の写真の写しが展示されており、何ともいえない異様な存在感を放っていた。
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夜桜と上田城
上田城では毎年「上田城千本桜まつり」が開催されており、催しの一つとして夜間ライトアップがある。“櫓門を背景に夜桜を撮りたいな”とカメラを片手に上田城に向かうと、城内からは昼間以上に賑やかな声が聞こえてきた。二の丸を抜け大手門前に行くと、どこを見ても人、人、人。特に櫓門前には、大きな人だかりができていた。
人の波に流されるように内堀沿いの道を進んでいくと、櫓門と桜が綺麗に並ぶ場所を見つけた。“絶好の撮影スポット!”。カメラを構え、シャッターを切る。満開の桜に埋もれるよう建つ櫓門はとても美しかった。大河ドラマ・真田丸の人気もあって、上田城は昼夜問わず大勢の人が訪れているようだ。スタッフの方も、「こんなに人が多いのは初めてかも。嬉しい」と満面の笑みを浮かべ話してくれた。
現在の上田城に残されているのは、お堀、土塁、櫓、石垣など、その姿は堅実で派手さはない。しかしその堅実な姿が、2度も徳川を退けた上田城にふさわしい気がした。※クリックで拡大
(松代城編につづく)
【城野 円】熊本地震で甚大な被害を受けた熊本城。現在、「熊本城災害復旧支援金」口座を開設し、支援を求めている。
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