下関ゴルフ倶楽部~波乱の定時総会を再現(9)
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第3号議案に続き、第4号議案「幹事として住興信、松本芳樹を選任する」が社員提案された。「下関ゴルフ倶楽部を愛する会」側と、「経営」側が鋭く対立するなか、沈黙を続けていた一般会員の一人が社員提案に賛同の意思を明らかにしたのだ。(前掲P14下段~P15上段より引用)
住世話人 4号議案の主旨を述べます倶楽部は赤字に陥っており、その一因は理事幹事の無料/低額プレー、及び商品券を山分けしていると言う事実が発覚しておりますので、我々2名が会員代表として幹事に入り監査を通じて正常化すると言うことです
遠山 私は住さんと面識はありませんが、今日の総会で3回目です。住さんを推薦したい理由は2つある。3回目の説明の中で、そうだなぁ、と言うこともあります。それと委任状が61口と言うのは重いのではないかと思う。前に座っている理事の皆さんに仲間に入れてやってほしいとお願いしたい
福田理事長 はい、ご意見ありがとうございます
藤井 私の名前で、住さんにいったのが間違いなく4口はある、私だけでなくまだあると思います。昨日、山元検査役のところでは90通ぐらいあった。それから、沖田さん、本訴するから心配しないでください
◆しかし、一般会員である遠山氏の発言も空しく、第4号議案は、住興信氏213口、松本芳樹氏211口と、過半数に達しなかった。
そこで取材班は後日、遠山氏に電話インタビューしたところ、「私は下関ゴルフ倶楽部で、純粋にゴルフを楽しみたいだけです。しかし今の倶楽部経営のやり方をいろいろ聞いているうちに、『愛する会』側の方たちの意見の方が、正しいと思うようになったのです。私はメインが山口銀行ではないので、自分の意見が言えるのでしようが、そうでない方たちは、経営側の案に賛成せざるを得なかったのではないでしようか」との答えが返ってきた。
◆下関ゴルフ倶楽部は、かつて下関に本社があった大洋漁業(現マルハニチロ)の中部利三郎副社長の手により1956年に開設(9ホール)され、1960年に18ホールとなった。利三郎氏には三人の息子がおり、長男の一次郎氏は1959年に日本アマで優勝。また三男の銀次郎氏は1962年に最初の日本アマ選手権を獲得。その後1978年までに6度のアマ日本一に輝くなど、伝説のアマゴルファーと呼ばれ、下関ゴルフ倶楽部が育ての親と言われる。
下関ゴルフ倶楽部の副理事長であり、林兼産業専務の中部哲二氏(47歳)は、中部一次郎氏の次男である。◆取材を通じて、『下関ゴルフ倶楽部の経営を正常化するためには、福田理事長が正当な継承者である中部副理事長に、大政奉還することこそが唯一の解決方法』と、多くの会員がそれを待ち望んでいることが分かった。
(おわりに)の一節に、「私共の最終目標は、中部一次郎/銀次郎の名コースの復活にあります。」
と結ばれている。(了)
【データ・マックス 特別取材班】文中に登場する主要な人物は下記の通りです。
◆「下関ゴルフ倶楽部」側の発言者
福田=福田浩一理事長(山口FG社長兼山口銀行頭取)
前田=前田昌宏支配人(山口銀行より出向中)
◆「下関ゴルフ倶楽部を愛する会」側の発言者
住=住興信世話人
藤井=藤井章郎氏((株)栄伸社長)・会の有力支援者
岡本=愛する会支援会員
遠山=遠山辰雄氏((株)遠山社長) 一般出席会員関連キーワード
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