更生計画終了間近、復活を目指す老舗企業・アサヒコーポレーション(2)
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戦火を乗り越え、日本一のゴム靴メーカーへ
(株)アサヒコーポレーションは1892年に石橋徳次郎氏が創業を開始。1918年6月に日本足袋(株)として法人化を果たしている。たしかに創業はライバル会社のムーンスターより遅かったが、ゴム底を張り付けた地下足袋製造販売の成功から飛躍的に事業規模を拡大。その後ゴム靴製造も手がけたことでアメリカ、ヨーロッパ、アフリカに向けた靴の輸出を開始し、さらに売り上げは伸びた。37年4月に日本ゴム(株)に社名を変更。「アサヒ靴」としてのブランドが確立し業界トップメーカーとなった。アジアに進出して海外工場を建設し、現地で製造を開始。しかし、太平洋戦争時代においては靴を縫う仕事から軍服を縫うことに変えられ、久留米工場には高射砲の配備、空襲も受けるなど苦しい状況におかれた。45年8月に戦争は終結したものの、海外工場はすべて自然解散となり海外拠点をすべてなくしてしまい厳しさが残る再スタートとなった。47年7月に本社を東京に移転し10月には輸出を再開するなど事業の再スタートを切る。それからは、ゴム靴製造を始め、ゴム長靴や革靴などの生産も順調に推移。久留米地区の若い労働力に支えられた工場はフル生産を行い、ゴム靴製造業界では全国1位。ピークは約700億円の売上高を誇る企業に成長していた。
市況に対応できない両巨頭
しかし、業績に陰りが出てきた。市場では安い輸入品の急増。とくにアジアなどからの安価なゴム靴製品が流入。国内のゴム履物製造6,660万足に対して、海外からの輸入は7,690万足と上回った。しかも、少子化が加速し、国内人口における年齢分布が変化。海外製品の流入と少子化のダブルパンチ、不況による消費低迷などから、ゴム靴製造業界は厳しい市況の波に晒された。まず、ムーンスターでは75年の石油ショックの影響で業績が落ち込み、三潴工場の閉鎖を検討、希望退職者募集1,500名を超える1,776名のリストラを断行するなど大ナタが振るわれた。当時を知る社員は「もうリストラはしません。と経営陣は言ったものの・・それだけでは終わらなかった」と振り返る。事実、その3年後の78年に再度リストラが行われ、三潴工場・氏家工場の閉鎖、希望退職者募集1,000名に対し1,171名が応募。従業員の賃金8%ダウンなど厳しい合理化が図られた。経営サイドでも三代目社長の倉田雲平氏はじめとする経営陣の総退陣や、役員社宅などの処分と、広い範囲で経営の合理化が行われていった。
そこには、輝かしい業績を誇るムーンスターの姿はなかった。新卒を長年入れることが出来ず、高齢の従業員ばかり。設備投資も思うようにいかずに旧式の設備だけが幅を利かせた。それから、韓国そして中国へ生産拠点移行を開始。熊本工場の撤退をはじめ国内生産拠点の縮小で工場の陣容はさらに縮小していった。「国内工場はいずれ無くなるかもしれない。試験生産分や小ロットが出来るインジェクションマシンによる生産は残るかも知れないが、多くの工員でつくる手張り靴は厳しいかも」と長年ムーンスターを支えた従業員はそう考えていたようだ。ゴム靴会社の両巨頭は市場を彷徨う大型船と化していた。
(つづく)
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