九州古代史を思う(2)
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始皇帝による不死の妙薬探し
当時、中国、韓国、倭国に共通する文字は言わずと知れた「漢字」だった。では、なぜ漢字と言うのかというと、象形文字で表わしていたさまざまな文字が中国「漢」時代に統一されたためである。韓国において世界でもっとも新しい独自のハングル文字が14世紀に考案作成されたが、当時、儒教政治下の韓国では男性主権では表だって使用されることはなかった。水面下で使用されていた物が、第二次世界大戦後、日の目を見る事になるが、それ以前の共通文字は漢字である。
魏志倭人伝に記載されている「もとは百あまりの国があり、その中には漢の時代に朝見に来た者あり」とある。では、当時の倭人はどのようにして中国という国を知り、なおかつ通じ合う言葉を知り得たのか、大いに疑問に思うところである。
歴史の潮流を観るためには源流までさかのぼり、人類の感性をもって時代ごとの背景を考証しながら下ってくる必要がある。
私は、この邪馬台国論争を繰り返し読むうちに、秦の始皇帝と徐福伝説が倭国建国に重要な影響を与えていると確信するに至った。歴史をさかのぼってみると、239年に卑弥呼,魏に遣使し「親魏倭王」の金印を授かるとあり、またさかのぼる事400年以前の紀元前221年、斎を滅ぼし天下を統一、始皇帝と号し秦を建国する。「全国に郡県制度を布き度量衡制度採用、貨幣を統一し文字を統一せしむ」秦の始皇帝は当時26才である。
始皇帝は何よりまず「不老不死の薬」に執着する。「徐福」の上奏により、仙薬を求めて東海に派遣すとあり、この史実に基づき思考するに、日本の各地に存在する徐福伝説が倭国建国に関する非常に重要な事項であることがうかがえる。
多くの徐福伝説の中で、佐賀県の有明海沿岸地帯が徐福上陸地としては、最も信憑性が高い所だろう。始皇帝は、すべての権力を握ったあと、残る情熱のすべてを永久の命に注いだ。そのため幾人もの方士達を各地に送り込み、妙薬を得ようとする。徐福もその中の一人で、妙薬を探しに出かけたのだ。もともと彼は斎の人民で海に対する知識は持っていて、東方海上に非常な興味を持っていただろう。それが始皇帝の命により、君命にて行動出来る事に喜び、当初は始皇帝の為だったのが段々と自分自身のためへと変貌して行く。
調査後の報告に、「今一歩」と述べ、始皇帝の気持を掴んでおき、その間に調査に行く。
始皇帝の暴君振り(万里の長城・陵墓建設などの)に、徐福は密かに策を練り、始皇帝に上申して曰く「『海中の大神に会い、始皇帝が延永益寿の薬を求めている』と伝えると、神曰く『礼薄ければ得る事も得ず』」と。徐福曰く「東南の逢菜山に登り、占った処、神は銅色の光を発して龍の如き形にて、光は昇りて天を照らす、ただちに再拝を願い出て問うて曰く『宜しく何かを供物すれば宜しいか』と。神曰く『童男女と百工を』と」。始皇帝、是を聞き大いに喜び、徐福に最大の望みを託し、童男女3,000人、百種の職人、五穀の種を携える事を許可する。
(つづく)
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