九州古代史を思う(7)
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中国正史の中の「倭國」
中国正史の倭・日本伝が登場するのが、
・「三国志」倭人伝 陳寿(233~297)
・「後漢書」倭伝 范曄(398~445)
・「宋書」倭國伝 沈約(441~513)
・「随書」倭國伝 魏徴(580~643)
・「旧唐書」東夷伝・日本国 編者多数後漢書の「倭在韓東南大海中依山嶋…」で始る魏志倭人伝。宋書では、讃・珍・済・武の五代にわたって九州、倭國の王が、南朝宋の皇帝に貢献し、官職や称号を要求した事が記されている。また、この宋書・東夷伝に伝記があるのは、高句麗・百済・倭の3国。
三国志以来の正史には、ずっと倭國という文字で出てきていて、「随書」の次の「旧唐書」でも倭國と日本国だが、随書だけは「俀國」という文字を使っている。
「随書」の「俀國伝」の冒頭の部分をみてみる。
俀國は、百済・新羅の東南に在り、水陸三千里、大海の中に於いて、山島に依りて居す。魏の時に、訳を中国に通ず――
このように倭人伝の冒頭のくだりとほぼ同じだとわかる。「俀王、姓は阿毎、字は多利思北弧、大業三年、使いを遣して朝貢す。使者曰く、『聞けば海西の菩薩天子、仏法を重興すと。故に遣して朝拝し――』其の国書に曰く『日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや』――帝、之を覧て悦ばず」とある。
隋の煬帝の大業三年は、西暦607年、日本書紀の推古十五年に相当する。ゆえに、日本書紀には「聖徳太子」の偶像を立てている。
後の時代の人が「多利思北弧」と「聖徳太子」を混同させ利用したのが「大和朝廷」である。九州の地では、すでに多利思北弧が仏教王国を開花させようとしていた事が窺える。また、「有阿蘇山、其石無故火起接天者、俗以為異、因行禱祭。(阿蘇山有り、其の石故なくして火を起こして天に接する者、俗、もって異となし、因りて禱祭を行う)」と随書にはある。この字句こそが、邪馬台国が九州に存在したことをはっきりと記述している。中国の正史で、古代の我が国の事が記されている重要な文書は「随書」、次いで倭國の事を記録している「旧唐書」だ。
文中に「倭國は、古の倭奴國なり。京師を去る一万四千里、新羅の東南の大海の中に在り。…世々中国と通ず…」と、記されている。やはり、これまでと同じ方位と距離にある山島の国として描かれている。
(つづく)
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