2024年11月28日( 木 )

九州古代史を思う(12)

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 「きみがよは ちよに やちよに さざれいしの いわおとなりて こけのむすまで」

 明治2年(1868年)、横浜の外国人居留地警護にあたっていたイギリス歩兵隊の軍楽隊に薩摩藩士たちが軍楽を学んでいた。日本の軍楽隊を作るためである。そのうち、イギリス軍楽隊長ジョン・ウィリアム・フェントン(John William Fenton)は、日本に国歌がないことを知って、国歌を決めて作曲しようと言い出した。薩摩の練習生たちは、この事を藩砲兵隊長大山巌につたえ、大山は野津鎮雄・大迫貞清らに諮(はか)り、彼らが幼少の頃から愛唱していた薩摩琵琶歌「蓬莱山」から「君が代は…」の部分をとりだし、フェントンに作曲を依頼した。 

wasitu この元歌は、10世紀はじめ、醍醐天皇の命令で紀貫之らが編集した最古の勅撰和歌集「古今和歌集」の巻七、賀歌にある「詠み人しらず」である。
 中国の国書は、すべてが当代の記録史ではなく、前政権史を忠実に記録された物であるのに対し、近畿天皇家の記録史「日本書紀」「古事記」などは自らのことを“さも有りなん”と記したもので、どのようにも編さんすることができる。その多くに、自己の物ではない記述があり、中国の国書と照らせば「一目瞭然」なのになぜ是正しないのか。それは「天皇家一元主義史観」が成立してしまっているからである。
 古代歌集の「万葉集」は、長歌・短歌など4,500余首で成立は759年とされている。その100年後、最初の勅撰和歌集「古今和歌集」の「賀の部」で冒頭を飾っているのが、この「君が代」である。冒頭を飾っているにもかかわらず、「題知らず」「詠み人知らず」とされているのはどうしてだろうか。

 ただの歌ではない、賀の部の冒頭を飾り、序文にも引用された程の歌である。この歌は「万葉集」には記載されなかったが、はるか古い時代、いわゆる他王朝の史書を「盗用」し、また多くの莫大な発展史をあたかも自己の歴史であるかのように見せかけるやり方が見える。筑紫人の歌、すなわち九州王朝の歌が、意図的にカットされているから「題知らず」「詠み人知らず」になっていると考えれば、素直に理解できる。

 郷土史家の吉田武彦氏は、「君が代」は九州王朝で「作られ・歌われ・奉納」された物と提唱されている。九州の糸島・博多湾岸の地名(糸島市志摩地区にある苔牟須神社・細石神社や博多の千代)を背景に歌われていること。また、志賀海神社の「山ほめ祭」に源流をなすと論じられている。
 「君が代」は、公式に国歌と定められた。だが明治維新以後、教育を通して天皇家を敬う歌として学校教育を受けた国民の共通の感情だろうが、昨今、入学式や卒業式において、歌うことに是非の論があるのはなぜだろうか。
 今日、文部科学省は、教育現場で「望ましい」から「指導するものとする」となったが、今でも論議されている状況である。この「君が代」の歌詞が、「天皇家一元主義」のシンボルであるために、強いることができないからだと考える。


 以上長文になりましたが、九州の古代について、諸文献等を参考にしながら、自説の「現日本史の疑問点」を、従来の学説を根本から非として、独自の考古を述べて参りました。日本の歴史は7世紀後半より始まり、それ以前は「文字」さえ持たない狩猟民族集団で、こつ然と「天孫降臨」説を唱え、宮崎高千穂の天の岩戸とか、何百年も生きたことになる「神功皇后」とか、一晩で何百里を駆け巡る「大和武尊」とか、律令・貨幣などの制度を整備したとされる「聖徳太子」等々、あまりにも莫大な虚偽の史観を作り上げた、近畿天皇家の仕儀に義憤の念を禁じえない気持で記しました。
 今でも、古代の遺構から新たな物が発見されると、すべてが「近畿天皇家の出先機関であった何々の物である」といびつな解釈を述べざるを得ない。現教育指針も「天皇家一元主義」を是正しなければ永遠に続くものでしょう。
 私は、これらの「失われた九州古代史」を、少なくともこの地の方々に「郷土文化史」として認識していただきたいと願う者です。
 佐賀の「吉野ヶ里」にある姫神社は、当分の間調査を行わないとのことですが、私はこの「姫神社」には大いに興味があり、調査を期待しています。

 今後、新しい視点での郷土史家が登場することを期待し、ここに筆を置きます。

(了)
【古代九州史家 黒木 善弘】

 
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