乗っ取られた昭和自動車!?(2)~立志伝中の人物・金子道雄氏
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昭和自動車(株)(本社:佐賀県唐津市、金子晴信代表)をめぐる金子家と青木家との因縁を語る前に、まずは同社の中興の祖であり、「昭和グループ」の創始者である故・金子道雄氏の半生を紹介しよう。
1905年7月20日、金子道雄氏は長崎県佐世保市矢岳町で、佐世保海軍工廠の製缶工の父のもと、10人兄弟の長男として生まれた。赤貧を絵に描いたような幼少期を過ごした道雄氏は、高等小学校卒業後、父のすすめで佐世保の「青木洋鉄商店」に丁稚奉公することに。まだ15歳の若さだった。
当時の青木洋鉄商店と言えば、福岡の渡辺藤吉本店と並び称されるほどの一流の鉄鋼商店。店主の青木榮藏氏に厳しい教えを受けつつも商才を買われ、道雄氏はメキメキと頭角を現していった。
1934年、店主である青木榮藏氏が他界すると、翌年には同店の支配人2人が主人の後を追うように相次いで他界。道雄氏は31歳で支配人となり、青木洋鉄商店を背負うことになった。転機が訪れたのは、37年秋のこと。主亡き後、道雄氏が全権を担っていた青木洋鉄商店に、経営難に陥った唐津の昭和自動車(株)の身売り話が持ちかけられたのだ。現金収入が見込め、平和産業の象徴とも言えるバス事業の将来性に着眼した道雄氏は、周囲の猛反対を押し切り昭和自動車の全株式を譲受。「やがて鉄の商売は斜陽になり、平和産業の時代となるだろう。そうなれば人々は旅行や買い物を楽しみ、バスが暮らしの足となるに違いない」――そうした先見の明からバス事業に着手した道雄氏は、わずか30台の所有バスからスタートし、地域業者との統合を経ながら路線を拡大。戦時中の人不足、モノ不足の時代にあっても、女性運転手の登用やガソリン車に代わる木炭車への切り替えで乗り切った。その後、太平洋戦争終戦の年である45年には、道雄氏が昭和自動車の代表取締役社長に就任した。
戦後数年間は、昭和自動車にとっても試練の連続であった。そうしたなか、道雄氏は福岡・博多の将来性にいち早く着目。タクシー事業での福岡進出に情熱を燃やした。だが当時はガソリンの配給制度が極めて厳しいうえ、木炭などの入手も困難な時代。苦肉の策として道雄氏が選択したのは、何と電気自動車。当時の電気自動車は、8時間の充電で3~4時間しか稼働しないうえ、バッテリーの信頼性も低いものだったが、それでも道雄氏は電気タクシーを福岡市内で走らせ、タクシー事業の福岡進出を果たした。
また戦後の混乱期には、グループの将来に大きな影響を与える出会いもあった。それは、トヨタ自動車(株)との出会いだ。当時、全国展開を進めていたトヨタ自動車は、北部九州の進出の要として道雄氏の事業手腕に白羽の矢を立てた。その結果、46年からトヨタ自動車の依頼で長崎トヨタのディーラーを皮切りに、福岡・佐賀でもディーラー経営を引き受けることに。これが、昭和グループとしての飛躍・発展の基盤となった。
その後も道雄氏および昭和グループは、青果や幼稚園、観光、海運、ホテルなど、貪欲に事業を拡大。その結果、昭和グループは一大企業グループへと成長していった。
一方で、道雄氏の活躍の場は、経済界だけに止まらなかった。47年から佐賀県議会議員を2期務めて政界への進出を果たすと、55年には戦後2人目の唐津市長に当選。市長を3期12年務め、極度に逼迫した市財政の立て直しを図ったほか、在任中には今現在も唐津市のシンボルとして親しまれている「唐津城天守閣」を建設するなど、唐津市の発展に大きく貢献した。市長退任後も、事業利益を地元に還元するべく75年には「金子財団」を設立するほか、九州朝日放送(KBC)の発起人やサガテレビの初代社長など、地域放送業界のリーダー格としても活躍。そうした数多くの功績が讃えられ、77年には当時の衆議院議長・保利茂氏とともに初の唐津名誉市民となった。そして81年8月、偉大な功績を残してきた道雄氏は、心不全のために永眠。74歳だった。道雄氏が遺した創業精神「昭和イズム」は、昭和グループの指針・道標として、今なお変わることなく継承されている。
後半はやや駆け足となってしまったが、「昭和グループ」の創始者である故・金子道雄氏の半生を紹介してきた。自社の事業だけでなく、地域の振興にも自身の人生を捧げ全力投球してきた同氏は、まさに立志伝中の人物であり、類まれなる傑物と言っても過言ではないだろう。
(つづく)
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