2024年11月18日( 月 )

シリーズ・金融機関淘汰の時代がやって来た(10)~九州地銀行の16年9月期(中間)決算を検証する(6)

記事を保存する

保存した記事はマイページからいつでも閲覧いただけます。

印刷
お問い合わせ

九州地銀の金融再編の行方を占う(1)

西日本シテイ銀行本店<

旧福岡シティ銀行・現西日本シティ銀行本店

日本の金融再編の経緯
 日本は、1986年12月から91年2月までの51カ月間にわたり、株式や不動産を中心にした資産の過度な高騰、いわゆるバブル景気に沸いたが、その後は一転して景気が後退。金融機関はバブル崩壊により多額の不良債権を抱えることになった。
 95年8月、第二地銀トップの兵庫銀行が倒産。銀行業界としては戦後初の経営破綻だった。続いて97年から98年にかけ、北海道拓殖銀行、日本長期信用銀行、日本債券信用銀行、山一證券、三洋証券など大手金融機関が、不良債権の増加や株価低迷のあおりを受けて倒産。
 そのため政府は、終戦後独占禁止法により金融持株会社は認められていなかったが、相次ぎ発生した金融機関の経営破綻の連鎖を食い止めるため、98年に独禁法を改正。
 全国の地域金融機関で最初の金融持株会社が2001年4月2日に誕生。それは北海道を地盤にする第二地方銀行同士である「北洋銀行」と「札幌銀行」が経営統合して設立した、札幌北洋ホールディングス(以下HD)だった。その後全国で続々と金融持株会社が設立されていく。

九州における金融再編の流れ
◆九州初の金融再編は、不良債権の処理に苦しむ高千穂相互銀行(宮崎市)を西日本相互銀行が1984年4月1日に救済合併。これによって普銀転換し西日本銀行となった。

◆金融庁は2000年12月、経営危機が迫っている九州銀行の救済に、福岡シティ銀行・九州銀行・長崎銀行を経営統合させるべく動き出した。しかし福岡シティ銀行は負担が大きすぎるとして拒否し、代わりに資本提携による緩やかな統合を提案したが、これは金融庁が拒絶。そのため3行統合はご破算となった。
 この福岡シティ銀行の対応は金融当局の反発を買い、後に経営が厳しくなり公的資金を注入された同行は、04年10月1日、ライバル関係にあった西日本銀行と合併したが、実態は救済合併されることになったのだ。今は西日本シティ銀行と一部名前を残すだけになっている。

◆02年4月1日、同じ長崎県佐世保市に本店を構える第一地銀の親和銀行は、第二地方銀行の九州銀行を救済するため経営統合。翌年4月1日、親和銀行は九州銀行を吸収合併した。
 親和銀行は不正融資事件で元頭取が逮捕され、その後遺症から1998年3月期から2期連続して巨額の経常赤字を計上。弱みを握られていた親和銀行は金融庁の指示を受けて、九州銀行と経営統合せざるを得なかった状況だったといわれる。
 もし金融庁の筋書き通り、福岡シティ銀行・九州銀行・長崎銀行が経営統合していたならば、金融再編の流れは大きく変わっていたかもしれない。監督官庁の怖さを身をもって感じたのは、今は亡き四島司福岡シティ銀行頭取だったのではないだろうか。

(つづく)
【(株)データ・マックス顧問 浜崎 裕治】

 
(5)
(7)

関連記事