2024年11月14日( 木 )

一級建築士免許裁判、控訴した仲盛昭二氏に訊く(1)

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 国は、仲盛昭二氏の一級建築士免許を、2009(平成21)年と13(平成25)年の2度にわたり、取消処分とした。09年の取消処分に対し、仲盛氏は、福岡地裁から免許取消処分の執行停止決定を受けたうえで、免許取消処分の取消を求める訴訟(本人訴訟)を提訴した。しかし、審理途中である11(平成23)年7月、国は、仲盛氏の免許取消処分を取消し、一級建築士免許を仲盛氏に返却した。

 これで一件落着かと思われたが、国は13年9月、再度、仲盛氏に対して免許取消処分を行った。国が処分を取消して2年後の、同じ理由による取消処分に対して、仲盛氏は、再度、福岡地裁から免許取消処分の執行停止決定を受けたうえで、免許取消処分の取消を求める訴訟(本人訴訟)を提訴した。今年(平成28年)6月、1審の判決が言い渡され、仲盛氏の訴えは棄却された。その後、仲盛氏は弁護士を付けずに臨んだ1審の反省から、弁護士を選任し、控訴に踏み切った。11月29日、控訴審の第1回口頭弁論を終えた仲盛昭二氏に話を聞いた。

経済性を追求した構造設計

 ――まず、仲盛さんの経歴を教えてください。

 仲盛昭二氏(以下、仲盛) 私は、26歳でサムシングという構造設計事務所を開業し、最盛期には、福岡を中心に、かなりのシェアを有する規模まで成長していましたが、諸般の事情から資金繰りが悪化し、平成12(2000)年に民事再生法の適用を受け、その後、平成14(02)年には、建築士事務所を廃業しました。

 ――サムシングが最盛期だった頃は、ライバル会社も多かったのではないですか。

 仲盛 サムシングが最盛期の頃は、相当なシェアを占めていた分、同業の構造設計事務所の仕事を奪っていたのですから、良くは思われていなかったのかもしれません。実際に、私に対する同業者の陰口や誹謗中傷は間接的に耳に入っていました。企業である以上、このようなことは一般的に多いことだと思っていました。

 ――サムシングの設計思想は、どのような方針だったのでしょうか。

 仲盛 サムシングでは、建築主のために、建物の構造上の無駄を省き、経済性を極限まで追求する姿勢で、努力を重ねていました。経済性を追求していく過程で、サムシングの構造に関する技術力は一段と高められていったと思います。建築主のために努力惜しまなかったことは、間違いではなかったと、今でも思っています。

 

誹謗中傷を招いた福岡市の発表

 ――平成18(06)年2月、福岡市は、サムシングが構造設計を行った物件の耐震強度に問題があると発表しました。この経緯について、お聞かせください。

仲盛 昭二 氏<

仲盛 昭二 氏

 仲盛 サムシングが構造設計を担当した物件のなかに、当時話題となっていた姉歯氏による耐震強度偽装事件の関係会社である木村建設が建築工事を行った建物が含まれていたのです。そのことで、福岡市が、日本建築構造技術者協会(略称:JSCA、構造技術者の団体)に構造計算書の調査を委託したところ、「構造計算書に不整合があり、耐震強度不足」とJSCAが回答しました。私は福岡市に呼び出され、協議を行い、「今後、共同で詳細な調査を継続する」ことで意見が一致しました。ところが、その翌日、福岡市は、私との協議を無視して、いきなり、「サムシングが構造設計を行った物件4件が耐震強度不足」と発表したのです。この唐突に発信された情報のために、福岡のみならず、全国的に混乱を来たす結果となりました。

 数カ月後、福岡市は、自らの発表が間違いだったことを認め、「4件とも構造上の安全性を確認した」と安全宣言を発表しました。しかし、安全宣言について、マスコミで報道されることはなく、私に対する世間のイメージは訂正されないまま、あからさまな誹謗中傷を受け続けています。

 今にして、当時のことを考えれば、姉歯事件の話題に日本中が沸き立っていたときに、「追加で」サムシングの話題をかぶせると火に油を注ぐが如く騒ぎが波及して面白くなるに違いない、という気持ちが福岡市建築局の担当者達の胸の内に去来し、にわかに色めき立ったのではないか、その衝動を誰もが抑えきれずに自らの行為を正当なものであると感じ、私との間で取り交わした「詳細な実態調査を行なう」という協議を無視してまでも、「見切り発表」するに至ったのではないかと推察されます。

 その当時、福岡市住宅都市局の担当者たちが冷静であれば、お互いに淡々と構造設計の実態の解明をすることができたと思います。その結果は、「安全性に問題がないことはわかったので、今後は、計算書や図面に食い違いのないように、気を付けてくれ」「わかりました。以後、注意を払って仕事にあたります」という会話で何事もなく終わっていたものだと思われます。立場を超えて中立的な判断をすれば、市担当者と構造設計者との関係は、そのようなお互いが納得する位置付けにあったのです。しかし、当時の日本中の空気はそれを許さず、テレビをつければどのチャンネルも「耐震偽装」の話題を煽っていました。行政側の建築局の担当者もそのような空気の中では、冷静に建築構造設計を受け止めることができる心理状態を持ち合わせていなかったのだと思います。

 私は、まさに、当時の世間の空気にもてあそばれ、翻弄された構造設計者でした。その渦の中では、自分の体を支えられるものは私の周りには何もありませんでした。

(つづく)

 
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