2024年11月05日( 火 )

過労死の時代に~変わりゆく労働の価値(2)

記事を保存する

保存した記事はマイページからいつでも閲覧いただけます。

印刷
お問い合わせ

嫌いなことを頑張っても良い結果は生まれない

 普通、人は好きなことや楽しいことには幾らでも時間をかけられる。一方、嫌いなことや苦痛の感じることにはできるだけ時間をかけたくない。

 好きなことに取り組む高揚感と嫌いなことを強いられるストレスは、まさに対極にある。仕事も同じで、それに対する取り組み姿勢は好きか嫌いか、楽しいか楽しくないかで決まる。好きでもないこと、納得できないことを営々と続ければ、それはストレスとなり、身体的あるいは精神的に基本的な問題を抱えている人にとって、少なからぬ影響を与えることは十分にあり得ることである。

 もちろん、それは仕事に限らず、多くのことに共通する。勉強が好きでなおかつ将来、学問で身を立てようという子どもにとって、数時間の睡眠で残りを勉強に充てるということは十分我慢できる労苦だが、そうでない人間にとってそれは苦痛以外のなにものでもない。

 たとえばマイクロソフトの創業者ビル・ゲイツにとって、ハンバーガーと一枚の毛布で何日もパソコンとにらめっこというのは苦痛どころか心ときめく行為であったに違いない。しかし、普通の人間にそれと同じことをしろといってもそれはできない相談である。

mukasi 太平洋戦争が終わって団塊の世代が生まれた。彼らの時代を代表する言葉に「ニコヨン」とか「欠食児童」という言葉があったのをご存じだろうか?いま、食事や学用品を満足に買えない児童が全体の15%もいるというが、団塊児童はその90%以上がいわば貧困児童だった。

 三度の食事でまともなコメを口にできるのは農家の子弟だけで、昼の弁当はふかしイモ、あるいはスルメの脚一本という子どもが大半だった。それでも学校の弁当を持ってこられる子は良い方で、クラスの半数は弁当がなく、水を昼食に代えていた。当時の暮らしにはカネも食料も無かったのである。

 昭和20年代、肉体労働者はニコヨンと呼ばれた。それは一日の労働対価が、百円札二枚と十円札四枚というところから来ている。当時のコメの公定価格は10キロ当たり400円から500円。しかし、実際にはその10倍というのが普通であった。つまり、一日働いても食べるのがやっとだった。いわゆるハイパーインフレである。当然、餓死という事例もごくまれではあったが耳にした。今では死語になった「栄養失調」もごくごく普通だった。

 当時の子どもは青っパナをたらして痩せこけていた。いずれも満足に食べられない結果である。ひとクラスに55人以上が詰め込まれ、いじめもあふれていた。そんな彼らは.それなりに身の処し方を知っていたような気がする。

 いじめられっ子の中には刃物を持っていじめっ子に立ち向かった子もいたし、いじめられたストレスをカエルやヘビなどの小動物に向ける子もいた。しかし、いじめ対象の子の命をとるいじめっ子も、自らの命を絶ついじめられっ子もいなかった。

 先生の体罰も日常茶飯事だった。竹の棒で尻を思い切りたたかれ大きなミミズ腫れを作る子や頭をペンチで強く小突かれて出血する子も珍しくなかった。田植えや稲刈りのシーズンには農家の子どもにはその手伝いのための「休暇」まであった。

 楽しみといえば時々お寺や神社の広場にやって来る紙芝居とバット以外は用具のないソフトボール、チャンバラくらいだった。皆が平等に貧しく、そして元気だった。

経験という資産

 そんな彼らの父親たちは戦争というこれまた過酷な体験をした。そしてそれは戦後の窮乏とは比べ物にならない過酷さだった。

 以前、福岡市に本部を置くある大手小売業の創業者からシベリア抑留の話を聞いたことがある。体格が良かった彼は輜重兵として中国戦線に参加し、シベリア送りとなった。抑留後半年足らずで90キロ近くあった彼の体重は50キロを切るほどになったという。飢餓と森林伐採という過酷な労働に耐え、いつか故郷に帰るという希望だけで苦難に耐えた話は何も彼だけのことではない。ダイエー創業者の中内功もフィリピン戦線での過酷な体験を語っている。負傷した彼は中内軍曹だけは見捨てられないと口にする何人かの部下によって、担架で運ばれ敗走したのだが、その時彼が思ったのは「部下は自分を食料にするために運んでいるのではないのか」ということだったという。団塊の世代はそんな彼らの体験を直接間接に聞いて大きくなった。

 経済白書がもはや戦後ではないと表現したのは昭和31年。それから10年が経ち、団塊の世代が中学を出るころと時を同じくして、日本は目覚ましい経済発展への道を歩み始める。当時、彼らは「金の卵」と呼ばれた。彼の労働環境は押し並べて過酷だった。しかし、前述したような環境で成長した彼らにとって、朝から晩まで休みなく働くことは雑作もないことだった。ハードワークへの耐性が十分に備わっていたのである。しかし、今はいささか事情が違う。

(つづく)

<プロフィール>
101104_kanbe神戸 彲(かんべ・みずち)
1947年生まれ、宮崎県出身。74年寿屋入社、えじまや社長、ハロー専務などを経て、2003年ハローデイに入社。取締役、常務を経て、09年に同社を退社。10年1月に(株)ハイマートの顧問に就任し、同5月に代表取締役社長に就任。流通コンサルタント業「スーパーマーケットプランニング未来」の代表を経て、現在は流通アナリスト。

 
(1)
(3)

関連記事