九州古代史を思う~「倭奴国」から「日本国」へ(7)
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「魏志倭人伝」を読み説く(3)
【伊都国に一大率を置き、北の諸国を監察】
租賦を収める為に高殿あり、国々に市ありて有無を交易し、大倭をして之を監督せしむ。女王国より以北は、とくに一大率を置きて、諸国を検察せしむ。諸国は、之を畏れはばかっている。伊都国に治所を置き常駐している。国中に刺史の如きあり(中国の州監察官が居るようなものである)。
(中略)
※一大率が諸国を管理・監察していることが記してある。【卑弥呼の女王の経緯と日常】
其の国、もと亦男子を以って王となす。留まる事七、八十年、倭国乱れ、相攻伐する事年を歴たり。
乃ち一女子を共立して王となし、名付けて卑弥呼という。鬼道に事え、能く衆を惑わす。年すでに長大なるも、夫は無く、男弟あり助けて国を治める。王となって以来、見る者少なし。
婢千人を自分の周りに置き、只一人の男子が飲食を給仕し、連絡の為居室に出入りしていた。宮室は高殿と城柵を厳重に設け、常に武器を持った兵士が警護している。
女王国より東も倭人国有り。【景初2年(238年)卑弥呼「親魏倭王」金印授受する】
景初2年6月、倭の女王、大夫難升米等を遣わし帯方郡に行かせ、皇帝に謁見して貢ものをしたいと求めてきた、太守劉夏は幕僚の将を派遣し、魏の使者を(洛陽)に送らせた。其の年の十二月、詔書して魏の女王に報じて曰く、親魏倭王卑弥呼に詔する。
(中略)
今、汝を以って「親魏倭王」となし、「金印・紫綬」を仮し、装封して帯方の太守に付してことづける。汝それ種人を慰撫し、忠節を励め。
(中略)
※その後、十年程の外交記録、印綬・詔書・鏡などが届けられる旨。また、他に狗奴国との争いを帯方郡に報告する旨などが記載されている。倭の女王卑弥呼は、狗奴国の男王と以前から対立、抗争していた。倭は使者を帯方郡に派遣させ、交戦状況を説明した。帯方郡の太守は、詔書と軍旗を使者に与え、檄文を作って言い聞かせ両者に停戦させた。
【卑弥呼の死後】
卑弥呼以って死す、大いなる冢を作る。径百余歩、殉葬者奴碑百余人。さらに男王を立てるも国中服せず、さらに相誅殺す、時に当たりて千余人を殺す。
そこで、卑弥呼の宗女(一族の)壹与、年13歳を立てて王となす。国中ついに定まる。壹与、倭の大夫率善中郎将掖邪狗等二十人を遣わして、洛陽の政庁に行き、男女奴婢三十人を献上し、白珠五千孔、青大句珠二枚、異文雑錦(まだらもようの錦)二十匹を貢る。以上が、若干省略した部分はありますが、「魏志倭人伝」の主要な部分です。
(つづく)
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