2024年11月14日( 木 )

名門はなぜ破綻に至ったのか(1)~鹿児島の通信工事、三州電通工業

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 栄枯盛衰は世の常。経営者の資質が問われる破産事件が起きた。2016年7月、三州電通工業(株)(本社:鹿児島市谷山港、前田直人代表)が40年の歴史に幕を下ろした。こう表現すれば、聞こえはいいが、取引先を中心に関係者は一様に首をかしげている。「なぜ倒産しなければならなかったのか」「耐えられたはず」「裏切られた」。取引業者からは疑問や不満が漏れ聞こえてきた。同年8月に破産開始決定が降りたのだが、一連の破産事件はまだまだ終わりそうにない。

通信工事では老舗

 三州電通工業(株)(以下、三州)は1968年に前田廣隆氏が個人で電気通信工事の請負業を創業したのがはじまり。その後、事業は拡大し、1975年7月に、株式会社として法人化。創業者の子息である前田直人氏が2003年8月に代表取締役社長に就任した。

 鹿児島本社のほかに、大阪、福岡、沖縄、種子島に支店を開設し、東京にも出張所を置いていた。九州地区を中心に営業エリアは拡大していった。電柱の新設や移転、撤去などを行うアクセス事業部、通信基地局工事のモバイル事業部、ビジネスフォン、LAN工事などのICT事業部などが通信事業部を構成。

 14年7月期には、過去最高の売上高となる10億1,146万円を計上するなど、受注は好調。通信基地局設置が一巡した15年7月期にも8億8,869万円を計上し、売上高は維持していた。そんな中で、訪れたのが16年7月の破産申立であった。建設業において、波があって当然の売上高。そこだけ見れば、大きな読み違えはなかったようにも思えるが、どこで歯車が狂ってしまったのか。

裏目に出た拡大、多角化路線

 直人代表によれば「通信事業」が振るわなかったことを破産の主因として、挙げているが、実際はそうではないようだ。関係者への取材から、倒産した最大の要因は、「飲食事業」の失敗であることがわかった。業績拡大を続けるその裏側で何が起きていたのか。

 通信大手との取引もあり、古くから同社を知る同業者が「鹿児島で三州といえば、名門だった」と語るほど、事業は順調だった。創業者の時代は九州南部を営業エリアとし、3億円台の売上高で推移。黒字を続けていた。

 転機が訪れたのは、2003年8月の代表交代だった。創業者である廣隆氏から、経営のバトンは息子の直人氏へ引き継がれた。直人氏が三州へ入社したのが、02年5月。代表就任はそのわずか1年3カ月後だった。直人氏は学卒から三州への入社まで金融機関に勤めていた。金融の知識に関してはプロだったが、通信工事については、素人だった。短期間で社長に据えたことが、今思えば最初のつまずきだっただろう。直人氏の代表就任を待ち望んでいたのは、前田一族だけだったようだ。当時を知る関係者は、「経験のない直人氏に対し、ベテラン職人が現場で怒鳴り声を上げることも少なくなかった」と当時を振り返る。若くして、代表になった宿命でもあるが、直人氏にとっては、やり場のない屈辱だったに違いない。

 これまでエリートコースを進んできた直人氏にとっては、未体験のことばかりであったはずだ。直人氏は名門ラ・サール高校から慶應大学へ進み、富士銀行そしてみずほ銀行では、ロンドン支店にまで勤務した経歴を持つ。スーツ姿から作業着に変え、現場では怒鳴り散らされる。状況を冷静に見て、技術を身に付けて、見返してやろうというよりは、自分にしかできない部分で、見返してやると思ったのではないだろうか。直人氏が着手したのは、経営方針の転換=拡大路線であった。

(つづく)
【東城 洋平】

 

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