九州古代史を思う~「倭奴国」から「日本国」へ(11)
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「都督府」と「大宰府政庁」(2)
私は、多元的古代研究会会員の荒金卓也さんが記されたものを読み、参考にさせていただくことがあります。随分前になりますが、私の疑問とすることと自説を同氏に文書でお送りしました。すぐに返信が届き、丁寧にご指導いただきました。また、同氏が師と仰がれている古田武彦氏は多くの書籍を残されていますが、なかでも「すべての歴史学者に捧ぐ」と題した文章に、簡潔に要点が記された文章があります。下記に引用させていただきます。
旧唐書の倭人伝、日本国伝は、従来の歴史学者が主張してきた、いわゆる「定説」とは、根本的に対立する歴史像を記載している。それに依ると、後漢の光武帝に「漢委奴国」の金印を授与され、魏朝から卑弥呼が「親魏倭王」の金印を授与され、隋の煬帝と対等に国交を結ぼうとし、唐朝と白村江で一大交戦を行い完敗した「倭国」は、一貫して九州の地にあった。
これに対し、白村江滅亡後の「倭国」を併合し、八世紀以降の列島代表の王者となったのは「日本国」であり、「倭国とは別種」であった。
これが「大和朝廷」であり、現在まで“伝統・継承”する近畿天皇家の歴史である。これは、従来の日本の大部分の古代史家が、三世紀もしくは五~六世紀以降の歴史を、たえず「近畿天皇家中心」に描いてきた歴史像と全く矛盾する。
しかし、その存在を、旧唐書は明白に述べている。
理由は、先に記した「張政」の事、次に白村江敗戦後、中国側唐朝の武将を三度に渡り派遣した。第一回は中国の百済占領軍司令官の命、二回目は唐朝の天子の命、三回目も渡来し、倭国の軍事的・政治的報告書が資料となり書かれた物が「旧唐書の倭国伝」である。
また、「日本国・近畿天皇家」の使者(遣唐使)として、8世紀初頭に唐朝に派遣された「阿倍仲麻呂」である。彼は50年間も唐に滞在し、「帰化」して唐朝の上級官僚として持ち入られ、その地で没した。その旨、旧唐書の日本国伝に明記されている。
すなわち、旧唐書の「日本国伝」の記載は、真実なのである。もし、これを非とし、古事記・日本書紀の示す、“大義名分”の立場を是とする学者が、尚有とすれば、それを明らかにして後になすべきだろう。それが人間の理性と良心ある歴史学者に課せられた、本質的な義務では無いだろうか。私がもっとも疑問とするところの回答の文章がありました。やはり、空白の古代史に疑問を持つ方々が存在されることを大変嬉しく思い、意義あることと勇気づけられます。
(つづく)
【古代九州史家 黒木 善弘】
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