日航ジャンボ機墜落事故とミサワホームの経営の転換点(前)
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乗員乗客520人が犠牲になった日航ジャンボ機墜落事故は、8月12日に発生から32年を迎えた。遺族や関係者が墜落現場となった群馬県上野村の御巣鷹の尾根に慰霊登山し、犠牲者を悼んだ。今年は三十三回忌に当たり、「三十三回忌法要」が営まれた。航空機史上最悪の事故は企業にも大きなつめ跡を残すこととなる。住宅のミサワホーム(株)はその1社だった。
創業者と正反対のパートナーが相乗効果を生む
創業者には、しばしばそのカリスマ性を支え、事業を継続、拡大させる人物がいることがある。番頭、女房役、同志、参謀などと呼ばれた。
本田技研工業の本田宗一郎氏には藤沢武夫氏という右腕がいた。本田氏は根っからの技術屋。信頼する藤沢氏に会社経営を委ね、自分は技術屋に徹していたのは有名な話だ。技術の本田、経営の藤沢。まったく畑の違う2人が揃っていたからこそ、世界のホンダになった。ソニーの井深大氏と盛田昭夫氏も同様だ。技術の井深と経営の盛田。両輪のように、お互いが支え合って世界のSONYを創りあげた。
森永製菓の森永太一郎氏には、松崎半三郎氏というパートナーがいた。森永氏から迎えられた松崎氏が出した条件が「あなたは製造に専念し、私は営業に専念すること」。洋菓子職人の森永と経営の松崎。2人が表と裏になり、森永の菓子王国を築いた。
両家が縁戚関係になるのは孫の代だ。太一郎氏の孫・恵美子さんと松崎氏の孫・昭雄氏が結婚した。昭雄氏の長女・昭恵さんが、安倍晋三首相の夫人。森友学園が設立予定の小学校の名誉校長に就き、政権を揺るがすきっかけをつくったあの人だ。創業者とビジネスパートナーが似た者同士ではさほど意味はない。創業者とパートナーが正反対だったことが相乗効果を生み出した。これがポイントだ。
三澤千代治氏と山本幸男氏のコンビでミサワホームは誕生
ミサワホームの三澤千代治氏と山本幸男氏の関係も、先達たちと同じだ。ミサワホームの創業の原点である「木質パネル接着工法」は、三澤氏が不治の病と言われた肺結核で入院していた間にひらめいたものだ。退院後、三澤氏は「木質パネル接着工法」のパテントを住宅会社に売り込んだが、「接着剤で家ができるわけがないでしょう」と嗤(わら)われて、まったく相手にされなかった。ならば「木質パネル接着工法」の家をつくってみせると三澤氏は意地になった。
郷里の新潟県十日町市に戻った三澤氏のもとを、十日町高校の同級生だった山本幸男氏が訪ねてきた。三澤氏は接着剤でつくる住宅を「一緒にやってみないか」と誘った。山本氏は二つ返事で引き受けた。
「よし、お前が技術を担当しろ。おれが営業で外回りする。2人で頑張って、日本中を接着剤でつくった家にしてしまおう」。
こうして1967年、ミサワホーム株式会社を設立。三澤氏と山本氏の二人三脚によるミサワホームがスタートを切った。耐久性やデザイン性に優れたミサワホームの住宅は圧倒的な人気を得た。73年には大和ハウス工業、積水ハウスを抜いて、売り上げで業界トップに上り詰める。三澤氏は若手起業家のスーパースターとして、メディアの寵児となった。
(つづく)
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